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ブラックレイン [アメリカ映画(80s)]


Black Rain(1989)

「ブレードランナー」のリドリー・スコット監督が日本を舞台に描くクロスカルチャルなバディムービーの傑作です。

リドリー・スコットは、イギリス出身の映像作家です。彼は、若い頃から弟のトニー・スコットと共にテレビドラマやCMを作り出してきました。活動の場をアメリカに移してからは、大企業からのオファーがおおくCM界では有名人となります。

スコットは、1977年「デュエリスト」という映画でデビューしますが、それほどのヒットにはなりませんでした。しかし映像は素晴らしくカンヌ映画祭で賞を受賞します。スコットはビジュアル主義の監督と言われます。その傾向はすでにこの作品から見受けられます。光の使い方がうまく幻想的な映像は、スコットにしかできないもので、ファンなら1カット見るだけでスコット作品かどうか見分けることが可能なくらい映像にこだわっていました。

次の作品「トリスタンとイゾルデ」の準備を開始しているとき、思わぬオファーが彼の元に舞い込みます。この企画が後の「エイリアン」(1979)となるのです。スコットは「トリスタンとイゾルデ」の企画を中止し「エイリアン」の監督をします。そしてその後の「ブレードランナー」(1982)と2つの作品で、スコットの映像スタイルは確立します。2作を通し光の使い方をさらに昇華させたスコットは「光と影の魔術師」と呼ばれます。あまりにも美しい映像に誰もが驚き感動しました。
しかし「エイリアン」はそこそこヒットしたものの、「ブレードランナー」は芸術性が高すぎ、興行的に失敗してしまいます。現在ではカルトクラシックとして、映画史に刻まれている2つの名画は、公開時大ヒットしなかったのです。

彼は、その後「レジェンド」(1985)、「誰かに見られてる」(1987)と映画を監督しますが、いずれもヒットには至りませんでした。スコット作品は、むしろ現在の方が評価されているのではないでしょうか。近年の映画やCMは、これらスコットの初期作品群に強く影響を受けており、当時は彼の感覚が早すぎたのかもしれません。

映画を監督しても評価されないスコットは、雇われ監督として仕事をしなければならなくなります。要は彼の企画ではGreen Lightが灯らなかったのです。そんな中、ポール・バーホーベン監督が降りた企画の話が彼のオフィスに舞い込んできます。

舞台は東京。ニューヨークで逮捕された日本人のヤクザを、東京に連れ戻す任務につく2人の刑事を描くバディ・ムービーでした。もともと日本文化に興味があり黒沢明の「7人の侍」の熱狂的なファンだったスコットは、この企画を引き受けます。

脚本が完成した後、この映画の最大の問題は日本での撮影にあることをスタッフの誰もが承知していました。

日本は、今でこそフィルムコミッションが乱立し、映画の誘致合戦が繰り広げられていますが、80年代はとても閉鎖的で外国人を受け入れる環境が整っていませんでした。さらに、アメリカ人が持つ日本文化に関するイメージと実際の日本人が考える日本のイメージにも大きな隔たりがあり、プロダクションデザインも困難となりました。英語を話せない俳優ばかりで、脚本に登場する英語の台詞を話せる役者が本当にいるのかという問題も解決できていませんでした。

スタッフは、まずロケハンのため東京を訪れます。ここで衝撃的だったのは、スタッフがイメージしていたのは中国的な雑多な街だったのですが、東京は綺麗に再開発が行われていたことです。結局、想定する街はなかなか見つかりませんでした。そこでイメージに一番近い新宿歌舞伎町でロケをすることになりました。スタッフは新宿警察や警視庁と何度も交渉を続けますが、なかなか撮影許可が下りませんでした。結局許可がとれないことを悟ったスタッフは、比較的協力的だった大阪に撮影場所を変更します。大阪でも様々な問題が山積していましたが、なんとか撮影はできる見通しが立ちました。しかし、予定していたおおくの撮影シーンの場所が見つからず、見つかっても許可が下りないことがおおく、結局かなりのシーンは日本以外で撮影するしか方法がないことがわかってきました。結局印象的な映像は大阪で撮影を行い、無理なシーンはアメリカで撮影するという非常に効率の悪い方法がとられることになるのでした。
ケイト・キャプショーが出演するシーンは全てアメリカで撮影されています。映像は大阪の道頓堀の景色とうまく編集されているため、観客は特に気がつかないでしょう。ラストのバイクチェイスのシーンは、当初茶畑のはずでしたが、北カリフォルニアのサンフランシスコ郊外のブドウ畑で撮影されました。大阪伊丹空港のシーンはロサンゼルスの空港が使われています。

キャスティングも難航します。大阪の警察で主人公ニックの相棒となる松本役は、英語力が要求されました。当初この役には坂本龍一に話があったようです。坂本龍一は「ラストエンペラー」の日本人役で見事な英語を披露しており、英語力が買われたのです。しかし坂本本人は脚本を読んで、松本役は自分とはキャラクターが違いすぎると断ってしまいました。そこで、オーディションを重ね現れたのが高倉健でした。彼は英語を勉強しており、基本的に問題のないレベルであったこと、そして日本では十分すぎるほど有名人であったことがキャスティングの決め手になりました。ヤクザの佐藤役は英語が話せない設定だったので、演技力と風貌が重要な要素でした。荻原健一、根津甚八、萩原流行など、そうそうたる面々がオーディションを受けました。一時、プロデューサーが気に入っていた俳優、奥田瑛二に決まりかかったのですが、彼は「千利休」撮影と時期が重なっていたため役を断ってしまいます。そんななか現れたのが松田優作です。圧倒的な演技力にスタッフは驚き、彼に佐藤役をオファーします。

映画はようやく準備が整い、撮影が開始されました。日本での撮影は主に道頓堀近辺と神戸で行われました。スコットは、彼の光と影の演出にこだわったので、撮影は時間がかかってしまい、警察からの指導があったりしました。それでも監督は妥協することなく良い作品を作るためにねばったそうです。プロダクションデザイナーも日本を理解し、できるだけ本物の日本を描こうと努力しました。おそらく日本がハリウッド映画で初めてまともに描かれたのが本作なのではないでしょうか。

撮影中、松田優作の演技があまりに素晴らしかったため、脚本では殺されるはずだったところを急遽変更することになり、ニックは佐藤を殺さず逮捕することになりました。これにはプロデュースサイドの強い意向があったとされています。もしかしたらニックと佐藤を扱った続編が作れるのではないか、というビジネス感が働いたことは言うまでもありません。

映画は、1989年にパラマウント配給で公開されます。今回もそれほどの大ヒットとなりませんでしたが、ボックスオフィストップ10に入り、当時はそれなりに話題となりました。中でも松田優作の演技には誰もが心を奪われ、主演のマイケル・ダグラスはかすんで見えました。映画が公開されるとロバート・デ・ニーロとの共演というオファーが松田優作に届きます。そしておおくのエージェントやプロデューサーから松田優作と会いたいという連絡が入ってきました。

しかし、松田優作は公開直後の同年11月6日、癌で他界してしまいます。
彼は、撮影前から癌に犯されていると告知されていましたが、延命治療を拒み、映画の撮影に参加していました。彼はハリウッド映画デビューに命をかけていたのです。そして、その賭は見事に成功したのでした。

映画は、アカデミー賞で音響賞を2つ受賞しました。ヤクザの親分役の若山富三郎は英語を話せないのですが、音響効果で見事に英語を話させています。

リドリー・スコットは90年代に入ると名声を高め、過去の作品は映画史に残る傑作として再評価されていきます。弟のトニーは、「トップガン」などハリウッドスタイルの映画を監督します。この二人は95年、スコット・フリーという制作会社を設立し「グラディエーター」「ブラック・ホーク・ダウン」など名作を作り続けています。

「ブラックレイン」は、公開後、話題になることはあまりありませんでしたが、テレビ放送の際、松田優作が日本語の台詞を残していたことがわかります。よって日本語吹き替え版では、松田自身が吹き替えを行っています。映画はスーパー35mmで撮影されているため、テレビ放送時は4:3の画角となり、映画館で見るよりおおくの映像が放送されました。

そして、2006年、DVDで「ブレードランナー」リマスター版が発売されました。公開から約20年が経っていますが、今でもスコットの素晴らしい演出と松田優作の魂を感じることのできる作品です。

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E.T. [アメリカ映画(80s)]


E.T. the Extra-Terrestrial (1982)

80年代最大のヒット映画で、公開当時は映画史上最大のヒット作となった伝説の映画です。

「ジョーズ」で大ヒット監督になったスピルバーグは、ジョージ・ルーカスと共に「レイダース」の撮影に入りました。ここでスピルバーグは、後にハリゾン・フォードと結婚するマリッサ・マティゾンと出会います。彼女は脚本家でした。スピルバーグは撮影中に「未知との遭遇」の続編を作りたいとマティソンに相談します。それは、あの宇宙船に乗り損い地球に取り残された宇宙人のお話でした。

この話をベースにスピルバーグとマティソンは、企画を立ち上げ脚本を開発していきます。暫くすると、この作品は「未知との遭遇」とは違ったテイストになっていきました。そこで続編ではなくオリジナル作品として映画を作ることにします。だんだんとストーリーの骨格が完成し、映画は子供が主人公で宇宙船に乗り損ねた宇宙人との出会いがテーマとして描かれていきました。

脚本が完成したところで、キャスティングが始まりました。スピルバーグとスタッフは全米を飛び回り、ストーリーにあう子役を捜し回りました。そして難航の末主人公エリオット役にヘンリー・トーマスを起用します。妹役にはドリュー・バリモアをキャスティングしました。アメリカのある街で起こった寓話としてリアリティをだしたかったため、基本的にこの映画には有名人は起用しませんでした。

映画はユニバーサルスタジオやロサンゼルス近郊で撮影されました。撮影時にはできるだけカメラの視点を下げ、子供やE.T.が見ている高さから映画を描くことにしました。これにより、子供の世界を見事に演出しています。

E.T.のデザインは、カルロ・ランバルディが行いました。顔は、アメリカの詩人、カール・スタンバーグとアインシュタインをイメージして作られました。キャラクターとしてかわいらしい造形をあえて避け、単体で見るとちょっと気持ちの悪いものでしたが、スピルバーグはこれでいいとスタッフを説得しました。止まっていると気持ちが悪いのですが、動くと実に愛嬌があるという演出はスピルバーグ監督でなければできなかったでしょう。結果、この効果はうまく機能します。映画を見に来た観客だけでなく、出演した子役達もはじめは恐がり、途中からE.T.を友達のように愛していくのでした。

映画は、「順撮り」という撮影方法で行われました。通常映画は撮影効率を考え、ストーリーの順番とは関係なくスケジュールを組んでいきます。よって撮影初日にラストシーンを撮影したりするわけです。しかし、「E.T.」の場合は、子役の感情が重要なので、ストーリーと同じ順番で撮影が進行しました。そして、撮影はできるだけ1テイクですませました。子役は何度も同じ芝居をするとテンションが落ちてしまうからです。
子供達がE.T.と初めて出会うシーンは、実際に撮影で初めて会わせました。よって、あの絶叫は演技ではなく子役の素の表情です。
このように、子役を第一に考え、スピルバーグは見事に撮影現場を取り仕切っていきました。

撮影中、スピルバーグの次回作は名作になると噂がたってきました。しかし、スピルバーグは撮影現場への人の流入をシャットアウトします。そしてタイトルは「BOYS LIFE」としました。一部の関係者以外は、新作がどんな話なのか、誰が出演しているのかさえわからなかったのです。このようにして、外部と離れた場所でアットホームな環境の中映画は撮影されていきました。

撮影後、ジョン・ウィリアムズによって音楽が作られました。ウイリアムズは「E.T.」のために素晴らしい音楽を作曲します。映画の中ではハロウィーンのシーンがでてきます。ここでE.T.は仮装します。「スターウォーズ」のヨーダの仮装のシーンでは、音楽が「スターウォーズ エピソード5」のヨーダのテーマをアレンジした曲になっています。これは、「スターウォーズ」と「E.T.」のサウンドトラックの作曲をジョン・ウィリアムスが行っているから可能になったことです。

こうして完成した映画は、ユニバーサル・スタジオによりブロックバスター映画として世に送り出されます。「ジョーズ」の宣伝をさらに昇華させたスタイルです。公開前には、町中にポスターが貼られ、宣伝には一切E.T.は登場しませんでした。映像で露出されたのはE.T.の腕と指だけです。

映画は、世界的に大ヒットします。アメリカでは全人口の2人に1人が見たと言われるほどのヒットになります。そして、映画が発明されてから全ての映画の興行収入を塗り替えていきました。これはアメリカに限ったことではなく、日本でもヨーロッパでも「E.T.」ブームが湧き起こったのでした。

当時、私は子供でしたが、どうしても映画が見たくて新宿ミラノ座で何時間も列を作ったことを覚えています。始発で映画館に行き、映画を見れたのは夕方の回でした。やっとみれたのにも関わらず立ち見でした。しかし映画が始まると疲れを忘れてラストシーンまで見入ってしまったのでした。

作品と宣伝の素晴らしさが最高レベルで結実した結果の大ヒットだったのです。

この大ヒットのエピソードが今でもいくつか語られています。
映画の中でE.T.が食べるのはM&Mではなくハーシーズのチョコです。原案ではM&Mでしたが、M&Mを発売するマーズ社は、映画での使用を許諾しませんでした。その後快諾してくれたハージーズに変更され撮影が行われました。映画公開後、ハーシーズのこのタイプのチョコが爆発的に売れたそうです。おかげでハーシーズは大もうけしました。
エリオット達が乗るBMXというタイプの自転車は日本のKAWAHARA製でした。映画公開と同時にこの「タイプのBMXは大ヒットし、アメリカではかなりの販売数を記録しました。
このように、映画だけでなく、様々な関連商品が売れに売れました。

公開はロングランとなり1年ほど映画館で公開されていました。そして、映画はアカデミー賞14部門にノミネートされ、そのうち4部門(Best Original Music Score, Sound, Sound Effects Editing and Visual Effects)を受賞しました。

この興行記録は93年の「ジュラシック・パーク」まで約10年間破られることはありませんでした。そしてスピルバーグは自分の記録を自分で塗り替えました。

「E.T.」のヒットの後、スピルバーグは、「カラー・パープル」「太陽の帝国」など社会派映画を監督し、しばらくは落ち着いた生活をします。ハリソン・フォードは学校の先生役でカメオ出演していましたが、最終的にそのシーンはカットされてしまいました。しかし、フォードは脚本家のマティソンと結婚しました。
エリオット役のヘンリー・トーマスは、今も俳優を続けていますが、パッとしません。妹役のドリュー・バリモアは、高校生頃からドラッグ中毒になり入退院を繰り返していましたが、この問題を克服し、今では第一線に返り咲いています。「チャーリーズ・エンジェル」「50回目のファースト・キス」など話題作で主演やプロデューサーを務めています。

E.T.がエリオットの自転車に乗って夜空を飛ぶシーンは、スピルバーグの制作会社「アンブリン・エンターテイメント」のロゴになっています。よって、アンブリン・エンターテイメント制作映画を最後まで見ると、「このフライングET」をみることができます。

E.T.は、その後、様々な映画やテレビに出演しています。「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」では未来のCafe 80'sという店に80年代を代表する商品としてApple Computerと一緒にE.T.人形が飾られていました。「スターウォーズ」ではジェダイ評議会にもジェダイとして登場しています。

「E.T.」は20周年記念デジタルリマスター・バージョンとして、2002年に再編集が行われたバージョンが存在します。これはあまり評判が良くありませんでした。

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スタンド バイ ミー [アメリカ映画(80s)]


Stand By Me (1986)

スティーブン・キング原作の青春映画です。

スティーブン・キングは、ご存知の通りアメリカで最も人気のある作家です。彼は、学校の教師でしたが妻に勧められメイン州の地元で発売されていたコミュニティー紙で作家としてデビューします。そして1976年にメジャーデビューとなる「キャリー」が出版されます。この本は、すぐに映画関係社の眼に留まり、映画化が企画されました。

映画は大ヒットします。そして彼は一躍時の人となります。しかし、それまでの生活スタイルを変える事なくキングはメイン州で地味な作家活動を続けました。そして彼は、もの凄いペースで作品を発表し続けました。

彼の作品のほとんどは、映像化されていきます。しかし、映像化権に関しては権利を渡す会社やプロデューサーを吟味しなかったために、ほとんどが駄作として認知される事になりました。「キング原作の映画はつまらない」という定説まで生まれてしまい、キング自身も傷つく事となります。

そんな中、ホラーを得意とするキング作品の中でホラー色のない中編が映画企画として浮上します。それが「The Body」という作品です。この話は、子供たちが死体を探しにいくだけの話なのですが、青春時代の一瞬の輝きがうまく描かれた秀作でした。キングらしいのは、子供たちが死体を探しにいくという目的です。でも、子供の頃は誰もがこの手の冒険をした経験があるはずです。子供は意外と残酷なものです。しかし、死体を思いがけず発見し、彼らは大人へと成長していきます。

果たして、ホラーではないキング原作が映画として成立するのか。当時の映画業界は疑問の念を抱く人の方がおおかったようです。

監督は、ロブ・ライナーに決まりました。彼は俳優としても活躍していて、監督としてはそれほど知名度があるわけではありませんでした。製作会社であるコロンビア映画も低予算で、無難に映画をまとめあげようとしていたことがわかります。

出演者も当時無名の役者がキャスティングされました。しかし、ライナーは脚本にあった俳優を探し求めていました。主演には、ウィル・ウィートンという正当派の少年が決まりました。一緒に行動をともにする友人にはTVドラマで子役をしていたリバー・フェニックスが決まります。彼は、凛とした顔立ちで、自分の意見を持った役を演じるにはぴったりでした。そのほかには「グレムリン」や「グーニーズ」で人気のあったコリー・フェルドマンと、本作がデビューとなるジェリー・オコネルが太っているという理由で決まります。

もうひとつ、キャスティングで注目しておきたいのは、不良役で出演するキーファー・サザーランドです。ドナルド・サザーランドの息子であるキーファーは、何作かTVドラマで端役を演じていましたが、この映画で本格的な俳優デビューをしています。

映画は、派手さもなく順調に撮影されました。そして編集すると、なんとも地味な作品に仕上がってしまいました。そこで、プロデューサーと監督は、この作品を商品としてラッピングするためのアイデアを考えだします。
ひとつは、ストーリ自体をラッピングすることです。プロローグとしてウィートン演じる主人公ゴーディーが大人へと成長した姿からこの映画は始まるのです。そして、ある新聞記事を見つけます。この記事がきっかけとなり、青春映画はスタートします。そして、エピローグとして青春映画が終わるとまた大人のゴーディが出てくるのです。大人ゴーディーの回想という手法をとる事で映画全体がノスタルジックな雰囲気に包まれるという効果がありました。そしてこの大人のゴーディ役にはリチャード・ドレイファスが決まりました。唯一の有名人キャスティングです。
次に、主題歌です。この青春映画にぴったりの名曲を探していたスタッフは、オールディーズに眼を向けます。そして「Stand By Me」が主題歌として採用されました。さらに映画のタイトルも「死体」ではなく「Stand By Me」となったのです。子供向けに作られた映画企画でしたが、完成してみると大人にも、というか大人の方が喜ぶ秀作に仕上がったのです。

映画は、予想に反し大ヒットしました。サウンドトラックも売れ、世界中で「Stand By Me」が流れました。映画のイメージもTVで流され、おおくの大人が子供の頃の一瞬の輝きを思い出し涙したのです。

ロブ・ライナーは、メジャーな監督として今も活躍しています。「スタンド バイ ミー」の直後に監督した「プリンセス ブライド」はアメリカでは今でも人気のある作品です。続く「ミゼリー」と「ア フュー グッドマン」ではアカデミー賞にノミネートされました。

主演の4人ですが、ウィル・ウィートンは「スタートレック」や「CSI」などTVドラマで活躍中です。コリー・フェルドマンは、今でも俳優活動をしていますが、作品に恵まれずB級ホラー映画などに出演しています。フェルドマンにとっては、この作品と直後の「ストボーイズ」が絶頂期だったようです。太っている事でキャスティングされたジェリーは、すっかり痩せて格好良くなり、名脇役としてハリウッドで活躍中です。リバー・フェニックスは、この作品で大ブレイクします。そして「インディ・ジョーンズ」でジェームス・ディーンの再来とまで言われ今後の活躍が最も期待される俳優にまで上り詰めるのですが1993年、「インタビュー ウィズ バンパイア」撮影直前にジョニー・デップが経営するクラブで急死してしまいました。

キーファー・サザーランドは、ご存知の通り「24」で今も大活躍中です。

今、「Stand By Me」を見ると不思議な感覚に捕われます。自分がこの作品を見た頃を懐かしく思う思いと、映画から受けるノスタルジーが複雑に絡み合い、妙に感銘を受けるのです。これは、大人になった私が初めて受ける感覚です。おそらくスタッフは、当時、子供だった「私」よりも、30代の「私」に向けてこの映画を作ったのだろうと、あらためて思い知らされました。特にドレイファスのプロローグとエピローグにはジンと来るものがあり、本当に死んでしまったリバー・フェニックスの実人生を重ねてみてしまいました。

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スタンド・バイ・ミー 〔SUPERBIT(TM)〕

STAND BY ME :Original Motion Picture Soundtrack


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プラトーン [アメリカ映画(80s)]

Platoon (1986)

オリバー・ストーンがベトナム戦争の現実を描く傑作です。この映画以降、ハリウッドはベトナム戦争映画ブームとなりました。

ウォール街の投資家として成功した父を持つオリバー・ストーンは、しっかりとした教育を受けましたが、厳格な父親と社交的な母親は、ストーンを寄宿学校に入れてしまいます。そして、その間に両親は離婚。母親はさよならも言わず家を去り、父親は迎えにも来ませんでした。ストーンは傷つき、アジア各国を旅します。そして、魅力に取り付かれますが、人生の目的を見いだせませんでした。丁度その頃勃発したベトナム戦争のニュースを見てストーンは、志願兵としてベトナムに赴きます。自殺するようなつもりでベトナムに志願したそうです。

ストーンは、ベトナムを救うという気持ちを持って従軍したそうです。実際のベトナムの湿地帯でのゲリラ戦は予想と全く違っていました。とても辛く怖い日々。次々と死んでいく仲間たち。精神的におかしくなっていく人々。そんな中でストーンは必死に自分を保ちました。そして遂に恐ろしい事件に巻き込まれていきます。それは、北ベトナム軍の兵士との対峙よりも恐ろしい事です。
彼は、この事件について現在でもおおくを語りません。それほどまでに衝撃的な出来事だったのでしょう。そしてストーンはなんとかアメリカに帰還します。そして世間から冷たい眼で見られます。「ベトナム戦争帰還兵だ」と。

ストーンは、大学で映画製作を学び、10年後、脚本家として才能をあらわします。アラン・パーカー監督の傑作「ミッドナイト・エクスプレス」(1987)で脚本を担当し、ブライアン・デ・パルマ監督の名作「スカーフェイス」(1983)そして、マイケル・チミノ監督の「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(1985)で才能を開花させます。3作ともに大ヒットします。エンターテイメント作品ではありませんが、世相を鋭く切り取った映画という事でおおくの観客の支持を得たのです。

ストーンは、脚本家としての成功にとどまらず、自らが描きたい人間の持つ凶暴さを描きたいと熱望しました。そして「サルバドール」「プラトーン」と社会派2作を監督するのです。

「プラトーン」は、ストーン自身がベトナムで経験した恐ろしい事件を映画化したと言われています。それは、本来ならば見方であるはずのアメリカ人同士が戦うという想像を絶するストーリーでした。この映画の企画をストーンは様々な映画会社に持っていきますが、アメリカの恥を映画化するのかと拒否されます。そんな中、出資をしてくれたのが弱小会社のヘムデールとできたばかりの配給会社オライオン映画でした。

ヘムデールとオライオンが出してくれた制作費はとても少なく、はじめから撮影は困難でした。予算がないので出演者は未経験の若者ばかり。そして派手な絵作りはできませんでした。幸いだったのは、経験がなくてもやる気のある役者が集まった事です。主役には「地獄の黙示録」で主役、マーティン・シーンの息子であるチャーリーがオファーを受けてくれました。そして、上官には、舞台経験豊かなトム・ベレンジャーとウィレム・デフォーが参加します。他にも映画デビューとなったジョニー・デップやフォレスト・ウィティカーなどもがんばっています。

映画は、アメリカ軍が協力してくれなかったので、フィリピンで撮影されました。そして辛い撮影が終わり、編集に入ります。予算がない中ストーンは自力でがんばります。そして期待されずに小規模にアメリカで公開されたのです。映画は予想に反し口コミにより大ヒットします。真のベトナム戦争を描いた初めての映画ということでマスコミでもかなり注目されました。そして上映館数も増えていくのでした。

それまで、ベトナム戦争映画ブームは過去に1回ありました。ただし、それは戦争中の出来事で、当時はベトナム戦争讃歌映画が中心。アメリカ軍は正義のために美しく戦っていました。当時の一番の異色映画は「地獄の黙示録」ですが、戦争の悲惨さにフォーカスをあてたものではありませんでした。
戦争が終わり時間が経過して、「プラトーン」は、戦争の悲惨さを初めて真正面から描いたのです。そして世界中の人々は初めてベトナム戦争の実情を目の前に叩きつけられたのです。

映画は、アカデミー賞で最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀編集賞、最優秀録音賞を受賞します。あれほどまで出資を拒否したハリウッドのメジャースタジオは、一斉にベトナム戦争映画の製作を決め「ハンバーガー・ヒル」「カジュアリティーズ」などの名作が生まれました。

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サルバドル-遥かなる日々-〈特別編〉

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7月4日に生まれて

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ドアーズ

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ストリート オブ ファイヤー [アメリカ映画(80s)]


Streets of Fire (1984)

ウォルター・ヒル監督による、80's最大ヒットのロック映画です。

1979年に監督した「ウォリアーズ」で話題の監督になり、82年の「48時間」でメジャー監督となったウォルター・ヒルが、「48時間」の成功を受け、自身の作りたかったロックン・ロールの寓話を映像化するべく企画を開発しました。

ちょうど、この頃、世の中には音楽と映画を融合させたヒット作が量産されます。きっかけは「フラッシュダンス」(1983)です。若きジェリー・ブラッカイマーとドン・シンプソンがプロデュースし、美しい映像で知られるエイドリアン・ラインが監督したこの映画は、瞬く間に世界中でヒットしました。そして、その後に「フットルース」(1984)が大ヒットします。若者達は、さらに面白い音楽映画を求めていました。

ウォルター・ヒル自身がやっと自分の企画を映像化できる地位に上り詰めた時期と音楽映画がブームの頂点になった時と偶然タイミングが重なったとき、この映画は公開されたのです。

映画は、寓話性を高めるため、舞台はアメリカのどこか、そして時代は限定していません。映像を見るとシカゴで撮影されているのがわかりますが、特にシカゴとはうたっていませんし、コカ・コーラのような実際にある商品のロゴやネオン看板なども一切登場していません。

ストーリーは、確かに寓話性が強く、ある男が街を支配している集団から女性を助けるというとてもシンプルなものです。この手の物語はかつては沢山作られていましたが、ヒルの巧みな演出によりこの「ストリート オブ ファイヤー」が、今やオリジナルと思われています。

これほどシンプルなストーリーなのに、いまだにこの映画に熱狂する人がおおいのには、ヒルの演出力以外に、出演者と音楽が強く影響しています。

キャストは、寓話性を高めるため、あえて無名俳優を起用しました。主演のコディ役には、当時TVドラマにいくつか出演経験のあったマイケル・パレが大抜擢されます。どこにも属さず、正義を貫くという難しい役に寂しげな表情がぴったりはまるパレは、うまく主演をこなしています。ヒロインのエレンには、「アウトサイダー」「ランブルフィッシュ」で、コッポラに見いだされ、売れる直前のダイアン・レインがキャスティングされます。うまく行けば「ストリート オブ ファイヤー」で一躍スターダムにのし上がれる彼女に取っての最大のチャンスでした。そして、悪役レイベン役に舞台役者のウィレム・デフォーが決まります。彼もまた、映画界に打って出るチャンスを得る事が出来ました。

映画をご覧になるとわかりますが、この3人のうち、一番印象に残るのは悪役レイベンです。しばらく強烈な演技が頭から離れません。それほど魅力的で主役のパレを食ってしまう程でした。次に印象に残るのは、美しい歌手のダイアン・レインです。

音楽は、Fire Inc. の「Tonight Is What It Means To Be Young」音が大ヒットします。劇中ではダイアン・レインが歌っていますが実は口パクです。そしてこのヒットを皮切りにサントラに収録されている曲が次々にビルボード・チャートにランクインしました。。劇中ではダイアン・レインがうたっていますが、実際は口パクです。そして「I Can Dream About You」は、いまだにラジオ局で良く流れています。この曲も劇中では黒人グループが歌っていますが、実際は白人が歌っていました。

ヒルの企画、演出、そして素晴らしい出演者、さらに見事な音楽が融合し完成した映画は当然大ヒットします。さらに、アメリカではポスターアートや美術までもが評価されロック好きには必須の音楽映画のバイブルとなりました。

映画のヒットの後、スタッフ&キャストはそれぞれの未知を歩みます。ヒルは、おおくのアクション映画を手がけますが「ストリート オブ ファイヤー」を超える作品を生み出せてはいません。最近ではTVシリーズの監督などをしていようです。マイケル・パレは、山のようなオファーを受け、あまり吟味せず仕事を受け、今ではVシネの王者として君臨しています。B級映画への出演ばかりで当時のかっこよさはもう見る事が出来ません。2006年だけで9本もの映画に出演していて、ある意味うまく生き延びています。ウィレム・デフォーは、NYで舞台俳優として活動しながら、仕事を選び着実に成長しています。「ストリート オブ ファイヤー」の後に出演した「プラトーン」(1986)では、映画史に残る演技を披露しています。そして「キリスト最後の誘惑」(1988)などの話題作から「スパイダーマン」(2002)や「二モ」(2003)など演技の幅を広げ、現在も第一線で活躍中です。

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フットルース [アメリカ映画(80s)]


Footloose (1984)

カンヌ行きの飛行機の中で、このトピックを書いています。今回はカンヌ映画祭とは全く関係のない青春映画「フットルース」の紹介です。

80年代は、独特の音楽ブームがありました。それはMTVという音楽専門チャンネルが開局した直後から起こったのですが、音楽をヒットさせるには映像とリンクしないといけないという不思議な現象が起きました。音楽だけではヒットしない時代だったのです。当時はマイケル・ジャクソンが「スリラー」や「バッド」などをヒットさせました。これらのミュージッククリップは、ジョン・ランディス監督やマーティン・スコセッシ監督を起用して、まるで映画のような映像を楽しませてくれました。このように刺激的な映像と音楽が合わさって、初めて大ヒット楽曲が生まれたのです。

こういった流れから、音楽をテーマとした青春映画がヒットします。まずは、「フラッシュダンス」(1983)。エイドリアン・ラインの美しい映像と、ジェリー・ブラッカイマーの気の利いたプロデュースと宣伝がうまく結びつき、世界的に大ヒットしました。この映画、興行収入だけでなくサウンドトラックの売り上げも驚異的な数字をたたき出したのです。これ以降、ブラッカイマーは自身のプロデュース映画には、かならず音楽が重要なパートになっています。

「フラッシュダンス」のヒットを受け、翌年公開されたのが「フットルース」です。「フラッシュダンス」は炭坑で働く女性がダンサーとして成功を得るサクセスストーリーだったのですが、こちらは、ロック音楽が禁止されているユタ州の田舎町が舞台です。町の若者たちはケビン・ベーコン演じるレンに触発され、次第に音楽の楽しさを知り始めていきます。この映画は、典型的なアメリカの田舎町を舞台にした青春物語で、おおくのアメリカ人の若者の心をとらえました。

実は、この作品とほとんど同じコンセプトの映画がかつてあったのです。それは「アメリカン・グラフィティ」です。こちらは60年代のアメリカの田舎町を舞台に60年代の音楽を鏤めて大ヒットした作品です。おそらく、スタジオは80年代の「アメリカン・グラフィティ」を目指して制作したのではないでしょうか。

映画は、流行に乗るため、急ピッチで準備が行われました。監督には、「グッバイ・ガール」など青春映画を演出させると絶妙なハーバート・ロスです。主演は、当時無名だったケビン・ベーコンがキャスティングされました。彼は「13日の金曜日」などに端役として出演していた若手俳優でした。相手役のアリエルには、やはり無名のローリー・シンガーが抜擢されました。当初、この映画はそれほど大きな公開は予定していなかったようです。というのも、出演陣はほとんどが無名。しかも制作費は低く、スタジオはとりあえず制作している程度の小規模作品でした。

映画は、そんな状況で撮影が開始されました。重大な問題は、撮影時に肝心の音楽が全く作られていなかったことです。音楽制作が間に合わなかったため、キャストはスタッフが作り出す単調なリズムに乗って、踊るしか術がなかったのです。そして、ユタの田舎町で寂しい撮影が続きました。しかし、キャストはこのチャンスを逃すまいと前向きに望んでいました。決して十分なバックアップがない環境でスタッフと協力して撮影を続けたのです。特にケビン・ベーコンは、献身的な仕事ぶりだったそうです。

音楽が出来上がったのは、撮影も終わり、編集が始まる頃です。予定ではビッグネームを揃えたサウンドトラックが完成するはずでしたが、結果はやはり無名の音楽家たちが集まり新しく書き上げた楽曲ばかりが揃いました。しかし、ここで奇跡が起こります。集まった楽曲は1曲1曲が素晴らしい名曲だったのです。

そして、映画は完成します。中規模の公開にも関わらず、映画はアメリカはもとより、世界中で大ヒットします。そしてサウンドトラックの売り上げも興行と同様に伸びました。

映画のヒットの後、ケビン・ベーコンは人気俳優になり現在に至っています。このときの経験が今の彼に繋がっているでしょう。彼はハリウッドで一番友人のおおい俳優と言われています。ローリー・シンガーは、その後ぱっとせず、現在は女優業を細々と続けているようです。
監督のハーバート・ロスは、その後、いくつかの青春映画を監督し2001年に心臓発作で死去しました。

80年代の音楽映画ブームは、同時期に公開された「ストリート・オブ・ファイヤー」で、ピークを迎えます。

現在、発売されているDVDは、公開当時と音楽が若干変わっていますが、今見ても十分楽しめる青春映画です。サウンドトラックも素晴らしく、今でもTVなどではよく使われています。

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ダイ・ハード [アメリカ映画(80s)]


Die Hard (1988)

ブルース・ウィリスをスターダムにしたハリウッドらしいエンターテイメント作です。

映画スタジオは、巨額の資金を投入し、世界マーケットで大きな利益を得ます。しかし、投資した映画のほとんどは回収不能となるのです。70年から80年代の映画産業は、10本中1〜2本が大ヒットし、残りの8本〜9本の赤字を埋めるという過酷な状況でした。これは、1本の制作費が高騰したこと、そしてお客さんの映画離れが原因でした。しかし、スタジオは贅沢な映画製作現場を経験していたため、制作費を削減することができませんでした。そして、プロデューサーや監督、俳優が自分の好きなことをやりはじめ、お客さんが喜ぶような映画を量産できなくなっていました。メジャー映画スタジオは経営に苦しみました。

こうした中、1980年には、ハリウッド・メジャー・スタジオのひとつユナイテッド・アーティストは「天国の門」を制作し、映画は大コケとなり倒産してしまいました。その他のスタジオもこの事件を「明日は我が身」と感じ、戦々恐々となりました。

20世紀フォックスも例外ではありませんでした。ユナイテッド・アーティストが倒産し、次に倒産するのは20世紀フォックスだとささやかれていました。フォックスは、かつて2回程、会社の経営が行き詰まり倒産寸前まで行ったのですが、1回目は「サウンド・オブミュージック」のヒットで救われ、2回目は「スターウォーズ」で生き延びました。そして3回目の危機です。フォックスは、結局資金が底をつき、自社スタジオの殆どを売却してしまいます。これが、現在のセンチュリー・シティーです。LAに行ってみるとこのスタジオの面積がいかに広大だったのかがわかります。現在はオフィスビルが建ち並び大きなモールがあります。ホテルもいくつか建っています。かつてはこの場所全てが映画スタジオだったのです。

そんな会社の経営危機の中、1つの映画制作にGOサインが出さます。「ダイ・ハード」です。フォックスは資金不足に陥っていたため、まずは有名人を起用することをやめました。そこでTVドラマで活躍していたブルース・ウィリスをキャスティングします。彼は無名でしたが認知度があり、仕事に積極的でした。そしてストーリーはなるべく同じ場所で撮影できるアクションにしました。これにより大幅に制作費を削減できます。例えば007シリーズは1作で、様々な国が舞台となります。そういった場合、スタッフやキャストの移動費や宿泊費は物凄い金額になるのです。「ダイ・ハード」は、ほとんどが1つのビルの中のお話です。これならロサンゼルスだけで撮影が行えるのです。結局撮影はセンチュリーシティーに完成したばかりのビルを使用しました。映画の中では「ナカトミ・ビル」と呼ばれるビルです。

映画は、低予算で完成します。しかも、とても面白く仕上がりました。公開すると、世界中で大ヒットします。
そして主演のブルース・ウィリスはトップスターになりました。以後、大作に出演していきます。
映画はその後続編が2本制作され、どちらも大ヒットしました。

20世紀フォックスはこれで経営が持ち直したのでした。ここから暫くこの会社は健全になっていきます。しかし2000年に入ると、再び経営危機をむかえます。この4度目の危機を救ったのは「スターウォーズ エピソード1」でした。

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グレムリン [アメリカ映画(80s)]


Gremlins (1984)

ジョー・ダンテが描く、かわいくてちょっと怖いクリスマス・ファンタジーの秀作。

ジョー・ダンテは、子供の頃から映画ファンで、映画に関し相当な雑学を持っていました。特にホラー、SF、ファンタジー映画には詳しくマイナーな作品まで膨大な知識を貯えていました。当然この映画好きの熱意は仕事にも活かしたくなり、彼は学生を終えるとNew World Picturesという小さな映画スタジオに雇われます。New World Picturesは、ロジャー・コーマンが運営する映画会社で、低予算映画を沢山製作していました。ここで彼が行った仕事は映画予告編の編集マンでした。彼は映画の知識を活かし、どんな映画も面白く見えるよう予告編を工夫します。そんな彼の仕事ぶりをみたスタッフは、ダンテを予告編の編集だけでなく映画本編の編集もしてみないかと新しい仕事を持ちかけます。そして後に「アメリカングラフィティ」で主演を演じ、映画監督になるロン・ハワードのデビュー作「Grand Theft Auto」の編集を手がけました。

ロジャー・コーマンは50000ドルで映画を撮るようダンテに指示し、遂に映画監督としての仕事を行います。この 「Hollywood Boulevard」(1976)は、ヒットはしませんでしたが、ダンテを監督の道に進める道標となりました。

そして、運命のときがやってきます。ロジャー・コーマンがさらに新しい企画を監督するよう指示してきたのです。これが「ピラニア」(1976)です。ロジャーは、とにかく低予算で確実に儲かるエンターテイメント映画を粗製濫造するプロデューサーです。でも絶対に損はしません。そんなロジャーが目を付けたのは当時大ヒットした「ジョーズ」です。この映画の亜流を作ればきっと客は劇場に来るはずです。そこで、早急に「ピラニア」を作らせたのです。

ロジャーは、「ピラニア」というタイトル、動物パニック映画であることさえ守ってくれれば、どんな駄作でもビジネス的には勝算があると思っていました。しかしダンテはロジャーの要求を遥かに上回る名作を世に送り出したのでした。
「ピラニア」は当時、大量に作られた「ジョーズ」の亜流の中ではずば抜けて面白く良く出来ていました。
「ジョーズ」の監督をしたスティーブン・スピルバーグは、亜流のおおさに呆れながら、「ピラニア」には監督の才能を感じ、映画を見た後絶賛したと言われています。

「ピラニア」のヒットのおかげで、New World以外から仕事の依頼がくるようになったダンテは「ハウリング」(1981)で狼男を題材に映画を作り、続いて「トワイライト・ゾーン」(1983)で映画監督として認められるようになりました。

そして、意外な人から映画監督のアプローチがやってきます。「ジョーズ」の監督スティーブン・スピルバーグです。
ジョー・ダンテは企画をパクった相手から演出力を認められビッグ・バジェット映画を監督することになったのです。

スピルバーグが依頼した企画「グレムリン」は、「トワイライト・ゾーン」にあるひとつのエピソードが元になっています。ある男が飛行機に乗ると窓から邪悪なクリーチャーが飛行機の羽を壊している姿を見るという怖いエピソードです。このクリーチャーをグレムリンと呼んでいました。映画では、怖さを出さずに、まずはグレムリンのかわいさとクリスマスのムードを前面に出し、その幸せなイメージの裏に怖さを隠しました。このレイヤー構造はなかなか見事で、一見暖かく見える人々の心の裏側を見事に表現しています。この映画の演出を行えるのはジョー・ダンテの他にいなかったでしょう。プロデューサーであるスピルバーグは、「ピラニア」で彼の才能を見抜いていたのです。

「グレムリン」には、ダンテらしい過去の映画へのオマージュが沢山散りばめられています。これは是非皆さん自身が探してほしいのですが、1つだけお話すると、ギズモがテレビで見ている映画は「素晴らしき哉、人生」です。アメリカでは今でもクリスマスイブには必ずテレビでOAされる名作です。他にもニヤリとさせられるダンテらしいギミックが満載です。

脚本は、まだ学生だったクリス・コロンバスです。まだ経験のなかった彼の脚本は、あまりに良く出来ていたので、実はクリス・コロンバスという人はいなくて、スピルバーグの偽名ではないかという憶測もながれましたが、実在の人物で、その後監督業に進出します。

出演は、当時人気絶頂だったフィービー・ケイツと当時つきあっていたザック・ギャリガンという青年です。

この映画は宣伝も大規模でヒットに結びつけています。グレムリンの姿を見せずに映画に出てくる決まり事を宣伝しました。1、光に当てては行けない。2、水を与えてはいけない。3、夜中の12時以降は絶対に食事を与えてはいけない。この宣伝にあおられ、観客は映画館に足を運びました。

映画は大ヒットし、後に続編が作られましたが、出来は今ひとつでした。

ジョー・ダンテはその後、「トワイライト・ゾーン」のTVシリーズや「アメージング・ストーリー」などオムニバス映画の1編を監督し、彼の得意なホラーとコメディが混じっていて映画に対する愛が一杯詰まった作品を作りました。「マチネー」(1993)は、彼の映画人生の集大成的な作品です。しかしそれ以降、ヒット作がでずにハリウッド・ジェイルに入ってしまいました。

クリス・コロンバスは、「ハリー・ポッター」シリーズを監督してトップ監督の仲間入りをしてしまいました。
主演の二人はこの後、ほとんど仕事がなくなっていきました。

通常、映画のセットは撮影が終わると壊されるのですが、「グレムリン」のセットは使い回されています。ちょうど同じタイミングで撮影されていたスピルバーグ監督作「インディー・ジョーンズ魔宮の伝説」のオープニングの中国のシーンは、「グレムリン」のチャイナタウンのセットでした。

このように1つの映画が様々な映画と繋がっているのです。

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ターミネーター [アメリカ映画(80s)]


The Terminator (1984)

ハリウッド映画史を塗り替えることになる低予算SFアクション。

監督のジェームス・キャメロンは、映画監督を目指してはいたものの、ロジャー・コーマンの下でSXFスタッフとして働いていました。ロジャー・コーマンは、アメリカB級映画の名プロデューサーで、低予算で確実に儲かる色物映画を沢山作り続けてきました。その中にはチープな怪獣が登場するホラーも多数あり、キャメロンは、これら作品で怪獣やミニチュアの宇宙船などを作っていたのです。

そんな彼に転機が訪れます。それはコーマンによって作られた「ピラニア」が大ヒットしたところからはじまります。「ピラニア」は「ジョーズ」のサメがピラニアに変わっただけのB級パニックホラーでしたが、監督のジョー・ダンテが見事にスリルのあるホラー映画に仕上げました。映画はスピルバーグも認める秀作となったのです。コーマンはすぐに続編の制作にとりかかります。しかしジョー・ダンテは、この企画に乗ってきませんでした。そこで、急遽、コーマンのスタッフから監督が起用されることになったのです。そう、ジェームス・キャメロンです。

キャメロンは「ピラニア2」を完成させますが、結果は散々だったようです。現在、彼は自分のフィルモグラフィーからこの作品を削除してほしいと関係者に漏らしている程です。しかし、この機会を与えられ、キャメロンは、自分ならば、もっと面白い低予算映画が作れるはずだと思いました。そこで小さな映画スタジオに自分の企画を持ち込みます。これが「ターミネーター」です。

ヘムデールという映画界社、そして新興のオライオン・ピクチャーズ配給というかなり小規模の映画製作が決定し、キャメロンは映画作りに打ち込みます。ここで、コーマンの下で働いてきた様々なノウハウが活きてきます。ロボットのターミネーターは時間はかかりますが費用がかからないストップモーションで処理しています。合成は安価なオプチカル合成ですが、粗が見えないようなライティングでごまかしています。

キャストは、当時あまり有名ではなかったリンダ・ハミルトンとマイケル・ビーン。ターミネーター役はボディビル出身のアーノルド・シュワルツッエネッガー。アーノルドは鍛え上げた肉体をマシーンに見せることに成功しました。

ストーリーはキャメロン自身が書き上げたSF物語ですが、とてもよくできていて、当時、無名俳優、無名監督、無名配給会社なのにも関わらず世界中でヒットしました。

そして続編です。ちょうど84年当時はビデオが普及した頃です。「ターミネーター」はVHSでもLDでも爆発的に売れ、レンタルビデオでも回転率が非常に良かったのです。よって、映画館で見逃した人たちのおおくは、家庭で「ターミネーター」を楽しんだことになります。こうしてファンが増え、続編を希望する声がおおきくなってきました。当然、劇場だけでなくビデオで大金を手にしたスタジオエクゼクティブも続編に興味を示しました。

キャメロンは「ターミネーター」以降、メジャースタジオに監督として起用され、「エイリアン2」「アビス」で大監督としてシュセします。そんな中、いよいよ続編にとりかかります。彼は、安易な続編を嫌い、自ら綿密なプロットを用意します。「ターミネーター」以降シュワルツッエネッガーはハリウッドスターとなり、「コマンドー」「トータルリコール」などに出演していました。よって、出演料が急騰し続編に参加するかどうか危ぶまれました。
そしてオリジナルのキャスト&スタッフが再び集まり、パート2の撮影が開始されたのです。

当然、人気者シュワルツッエネッガーは、主人公級の扱いにしなければならずプロット作りは難航したようですが、アビスで開発した新しい技術を取り入れ、新しいターミネーターを用意し、ファンならずとも誰もが楽しめるエンターテイメント作品として「ターミネーター2」は完成しました。

映画は大ヒットします。そして、シュワルツッエネッガーは、さらに人気者になります。キャメロンとリンダ・ハミルトンは、これを機に結婚しました。パート1で主役級だったマイケル・ビーンは、1シーンだけ出演していましたが、公開版ではカットされてしまいました(後にディレクターズ版で復活)。「ターミネーター2」は、今でもビデオセールス、DVDセールスが好調で、テレビで放送すると相変わらず高い視聴率を取るおバケ映画となりました。

キャメロンとシュワルツッエネッガーは、「ターミネーター2」直後、「トゥルーライズ」で再びタッグを組みます。この作品は、キャメロンの作った制作会社ライトストームのオリジナル作品という位置付けでしたが、「ターミネーター」人気の影響で大ヒットします。そしてキャメロンとシュワルツッエネッガーは、約束されたスター街道を走り続けるのです。

パート2のスタッフ&キャストは、映画の大ヒット後、再び集められました。パート3の制作かと思いきや、与えられた仕事は遊園地のライド制作でした。キャメロンは、全く新しいタイプのライドを開発していたのです。ストーリーはパート2の後のお話。再び登場する新ターミネーターとT-1000(シュワルツッエネッガー)の戦いを3−Dとライブアクションで表現しています。このライドはとても素晴らしいので是非ユニバーサルスタジオで体験してください。

そして、パート3です。キャメロンは、3作目のイニシアティブを取る権利を有していませんでした。契約上、続編を制作する権利を持っていたインターメディアがキャメロンの意志に反し制作してしまいました。当然、あの素晴らしいストーリーと演出はなく、シュワルツッエネッガーが出演したのにも関わらず平凡な作品となってしまいました。個人的には危機を「ターミネート」する話だったはずのこのシリーズが、結局ターミネートできないというオチには大変失望しました。

その後のお話です。キャメロンは「タイタニック」で映画界の最高峰に昇りつめました。シュワルツッエネッガーは、人気を利用しカリフォルニア州知事になりました。ハミルトンは、キャメロンと離婚し女優を続けていますが、パッとしません。マイケル・ビーンは今も名脇役として沢山の映画に出演しています。特に「ロック」での演技は印象的でした。

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13日の金曜日 [アメリカ映画(80s)]


Friday the 13th (1980)

先日、ロサンゼルスのユニバーサル・ウォークで「13日の金曜日」25周年パーティが行われました。あの映画が製作されてからもう25年が経ってしまったのです。このパーティには歴代のシリーズに携わったスタッフ&キャストが集まりました。

このパーティに出席した私の知人が、なんと素晴らしいプレゼントをくれました。それは「The Complete History of FRIDAY THE 13TH」という分厚い本でした。表紙にはジェイソンが描かれています。この本を手にした時、遂にこのシリーズも伝説になったんだなあと感動しました。そして表紙をめくると、そこには20名以上の直筆サインが入っていました。25周年パーティに出席したスタッフ&キャストがサインした本だったのです。

1969年、ショーン・カニングハムという20歳の青年が、コネチカットにある妻の家の近くに小さなオフィスを構えました。結婚1周年を迎え、二人で小さなビジネスをはじめることにしたのです。それはフィルムビジネス。既にブロードウェイで、ある成功を収めていた二人は映画を作ってみたかったのです。はじめは今まで培ってきた芸術的なセンスを活かせる映画を作ろうと試みました。その後、試行錯誤を繰り返しますが、なかなか面白い映画を作ることは出来ませんでした。

そんな中、カニングハムはより商業的に儲かる映画の制作に着手します。1979年、55万ドル(約6000万円)を投じて28日間で撮影された「13日の金曜日」です。芸術とはほど遠いこのホラー映画は1980年にアメリカで公開されると、誰もが予想をしていなかった程大ヒットしてしまいます。

映画は、4000万ドル以上の興行収入をたたき出し、ロングランを続けます。そして、世界中で大ヒットをしてしまうのです。このヒットの要因は「馬鹿げた幸運」と自ら語るようにカニングハムですら理解できなかったようです。

ニュージャージーのとあるキャンプ場、クリスタルレイク。このキャンプ場に若者がやってきます。そして楽しいはずのキャンプがとんでもない殺戮の場と化してしまいます。当時は、このようなシノプシスは新鮮で、最後に女性が生き残るというパターンは、その後何十何百というホラー映画でまねされました。特に話題となったのはラストシーンです。話が一件落着したと思っていると、最後にとんでもない映像が登場するのです。このストーリーとは関係のないシーンが観客に受けました。

その後、「13日の金曜日」はシリーズ化されます。カニングハムは、原案料だけ受け取り、続編の制作には直接タッチしませんでした。続編は、パート1では登場しないジェイソンが実は生きていたという設定となります。ジェイソンは、白い布のマスクをかぶり、クリスタルレイクを訪れる若者達を殺して行きます。そして、パート3で遂にジェイソンはあのホッケーマスクを手に入れます。3D映画として制作された第3作目は大ヒットします。そしてホッケーマスクのジェイソンはキャラクターとして確立するのでした。当然、スタジオは続編の制作を加速させます。続く第4作は、最終章とタイトルがつけられ、シリーズはピリオドを打ちます。そう、遂にジェイソンは最後のととめをさされるのでした。ここまでで「13日の金曜日」シリーズは一区切りするはずでした。しかしシリーズ中最大のヒットという記録を作った最終章をこのままで終わらせてはもったいないと考えたスタジオはさらなる続編の制作に着手します。ただ、ジェイソンが既に死んでしまっているという設定では、続編のストーリーが作れません。悩んだスタッフは、面白い設定を考えつくのでした。ジェイソンは既に死んでいるのですが、実は死んでいなかったと思わせ、他人がジェイソンになりすまして殺戮を行うという設定です。これは番外編としてなかなか楽しめました。このストーリーは一般にも評価され、大ヒットします。

本来ならば、オリジナルを作ったスタッフやキャストが、続編制作に関する意思決定を行うべきです。しかし「13日の金曜日」シリーズは、契約でスタジオが続編に関する決定権を握ってしまいました。こうなると、作品に愛情がないエクゼクティブは儲かるだけ儲けようという商業的感覚のみで続編を作り続けます。不幸にも「13日の金曜日」はこれ以降、ストーリーはどうでもよくなり、もうけが続く限り次々と量産されていくのでした。
パート7以降の作品は語る必要もない程酷いストーリーで、ファンを失望させますが、派手な宣伝とジェイソンの知名度で、興行収入はUPしていきます。しかし、あまりにありえない設定とマンネリ化したストーリーにより客はシリーズに飽きてしまいます。そしてシリーズをしゃぶり尽くしたパラマウントは、映画の続編の権利をニューライン・シネマに売り飛ばしてしまうのでした。

ニューラインは、9作目となるFinal Fridayを制作しますが、評価は散々でした。そこで、2つの企画を立案します。ひとつはこのシリーズの創始者であるカニングハムに製作を依頼すること。そしてもうひとつはニューラインの看板である「エルム街の悪夢」シリーズのキャラクターフレディとの競演です。この2つの企画は映画化されます。そしてカニングハムが担当した「X」は、まあまあのヒットとなり、「フレディvsジェイソン」は大ヒットしました。

しかし、これ以降は映画化の企画は進行していません。ファンは失望し、この企画を続けるスタッフもいなくなってしまいました。

企画立案者ではなくスタジオの意向で製作さた続編。本来あったストーリーのルールやポリシーが忘れ去られだんだんと劣化していきます。だからスタッフやキャストが入れ替わってしまうのです。そして観客は失望します。この典型が「13日の金曜日」なのです。

ショーン・カニングハムは、シリーズにはほとんど関われませんでしたが、続編の原作者であることで莫大なロイヤリティを手にすることが出来ました。何もせずに毎月多額の入金があったのです。今ではロサンゼルスに大豪邸を構え悠々自適な生活を送っています。

そして、今でも第1作は高い評価を得ていますし、パート5までのシリーズにはファンがついています。だから25周年パーティはおいの盛り上がり、当時のスタッフやキャストが大集合して、集まったファンに歓迎されました。

カニングハムは、2006年に新作を監督します。なんとこの企画にはとんでもないサプライズが用意されています。それは「トラップト・アッシュ」という作品で彼は日本を舞台にしたホラーに挑戦しています。

そして、2009年には、マイケル・ベイの手による待望のリメイク版が公開されます。

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13日の金曜日 PART3
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13日の金曜日PART6 ジェイソンは生きていた!
13日の金曜日 PART7 新しい恐怖
13日の金曜日 PART8 ジェイソンN.Y.へ
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