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J.J. エイブラムス [スタッフ&キャスト]

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J.J. Abrams

今回は、現在、最も注目されている映像業界の若手、J.J.エイブラムスを紹介します。

J.J. エイブラムスは、エミー賞を受賞したこともある有名なテレビプロデューサーの息子としてニューヨークで生まれました。その後父親の転勤でロサンゼルスに引っ越し、子供時代を過ごします。学生時代から友達と自主映画を制作し、早くから企画の才能を開花します。
J.J.が13才の時、ニューヨークから引っ越してきていたマット・リーブスと仲良くなります。二人は数人の友達と共に映画制作のまねごとを始めました。

J.J.は、サラ・ローレンス大学に進学します。彼は大学で友人といくつかの映画企画を作りました。そのうちの1つがタッチストーン・ピクチャーズの目にとまり、企画はスタジオに売れてしまうのでした。この企画は見事映画化されます。タイトルは"Taking Care of Business" (1990)。邦題は「ファイロファックス/トラブル手帳で大逆転」。日本ではヒットさせる気が全くない宣伝で静かに公開は終了しました。しかし、アメリカではJ.J.の才能をきちんと評価していました。続いて1991年にハリソン・フォード主演の "Regarding Henry" (邦題:心の旅)で脚本を担当、1992年にはメル・ギブソン主演の "Forever Young" (邦題:フォーエヴァー・ヤング/時を越えた告白)では、脚本に加えエクゼクティブ・プロデューサーのクレジットも手にします。

映画界で脚本家として努力している時期、彼はテレビ界でもステップアップしていました。学生時代の友達であるマトッ・リーブスと作り上げたニューヨーク(大学名は違いますが、明らかにニューヨーク大学)の学生を描いた "Felicity" (邦題:フェリシティの青春)というテレビシリーズのパイロット版を制作します。ドラマは、テレビ局に認められ放送されます。そして大ヒットしました。
彼は、映画業界で徐々に力を付け、テレビでは一気にヒットプロデューサーとして名前を知られるようになりました。

テレビ界と映画界の両方でオファーがかかるようになった30代の映像オタクには、映像業界から様々な誘惑がありましたが、「アルマゲドン」の脚本を手伝うくらいで自分の企画に集中します。「フェリシティの青春」で4年のシリーズに終止符を打つと、新作ドラマ「エイリアス」を手がけます。「エイリアス」は、エミー賞やゴールデン・グローブ賞などを受賞、テレビ界の中心人物として認められました。「エイリアス」は、シーズン5まで続きました。そして直ぐに次のドラマに着手します。今度はSF映画です。

そんな時、「ミッション・インポッシブル」シリーズの新作に行き詰まっていたトム・クルーズからオファーが来ます。是非パート3の脚本と監督をお願いしたい、と。J.J.は、悩んだ末、この仕事を引き受けます。新作ドラマ「LOST」と「MI3」の掛け持ちです。
でもこれを見事にこなし、「MI3」は大ヒット、「LOST」は大人気で高視聴率をキープしました。
さらにもうひとつ作ることになったテレビドラマ「Six Degrees」は視聴率低迷により番組途中で終了しています。

ヒットプロデューサー、ヒット脚本家、そしてヒット映画監督というタイトルを手にしたJ.J.エイブラムス、さらなる大作を手がけると思っていたら、アッと驚く映画を制作しました。それが「クローバーフィールド」です。子供の頃からの友人マット・リーブスと共に新しい映像制作技術を模索し完成させたのです。いままでとは全く異なるカラーの作品ですが、実は彼のキャリアの中で作る必要があったのです(詳しくは「クローバーフィールド」の回を参照)。

そして、遂にJ.J.は、大作に挑みます。それは「スタートレック」かつての古くさいシリーズをリコンストラクションするという大胆な企画です。今までのシリーズには世界中におおくの熱狂的なファン、トレッキーが存在します。パラマウント・ピクチャーズは、過去のイメージを引きずることなく新しい「スタートレック」を作って欲しいとオファーしてきました。見たことはあるけれど、それほど熱狂的ではなかったJJは、キャストを一新し、「スタートレック」のオリジナルをリメイクすることにしました。撮影前からネットで流された予告編は傑作です。溶接工が鉄の壁を溶接しています。カメラは、だんだん引いていきます。すると、その壁はエンタープライズ号の壁なのです。そしてエンタープライズ号の全景が見えたところで、あの「スタートレック」のメインテーマが静かに流れるのです。
このプロデューサー感覚にたけた予告にファンは熱狂しました。
私は、偶然「スタートレック」の撮影スタジオに行く機会があったのですが、現場は淡々と作業が進んでいました。キャストは皆無名です。制作費を抑え、「クローバーフィールド」で学んだ新しいCG技術を盛り込んでいます。

「スタートレック」は、アメリカで公開され、空前の大ヒットとなっています。

さて、まだ43才のJ.J.。今後、どんな作品を仕掛けてくるのかとても楽しみです。


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ジョージ・ルーカス 2/3 [スタッフ&キャスト]

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「スターウォーズ・サーガ」(「スターウォーズ 新たなる希望」「スターウォーズ 帝国の逆襲」「スターウォーズ ジェダイの復讐」「スターウォーズ ファントム・メナース」「スターウォーズ クローンの攻撃」「スターウォーズ シスの復讐」)、インディー・ジョーンズ・シリーズ」(「レイダース」「魔宮の伝説」「最後の聖戦」)生みの親、ジョージ・ルーカスの第2回目です。

大学院生だったルーカスは、映画祭で賞を受賞したことをきっかけに、当時人気の出てきたフランシス・フォード・コッポラ監督と親交を深めまていきす。コッポラは、映画制作にスタジオの人々が口を挟むというハリウッドシステムが嫌いだったので、サンフランシスコに自身で映画制作会社アメリカン・ゾエトロープという会社を興しました。その会社の第1作目の映画を、ルーカスに撮らせることにしたのです。コッポラは、ルーカスが自主制作で作った「THX-1138 : 4EB」を気に入っていたので、この作品をメジャー公開できるようリメイク版の監督を指示したのです。長編版の「THX-1138」は、ルーカスの監督デビュー作としてワーナーブラザース配給で公開されました。しかし、残念ながら興行的に大失敗します。当時、先進的なSF映画は一般の観客に受け入れられませんでした。

コッポラが「ゴッドファーザー」(1972)の監督として、全精力をこの映画製作に向けていったため、ルーカスはコッポラの下を離れ、自分で映画制作会社をサンフランシスコで設立します。ルーカスフィルムと名付けられたその会社でルーカスは1本の脚本を書き始めます。ルーカスがモデストで過ごした高校生時代をベースにした「アメリカン・グラフィティ」です。アメリカ人のおおくは、自分の生まれた街で一生を過ごします。それが嫌な若者が懸命に街を飛び出そうか、留まろうかと悩む姿はまさに若きジョージ・ルーカスの姿です。そして、脚本には、重要な要素が含まれていました。街では若者たちは車に熱中していました。そしてルーカスが聞いて育った音楽を盛り込んでいたのです。これも彼の学生時代の体験です。
「アメリカン・グラフィティ」は無名俳優ばかりを起用して、ユニバーサル・ピクチャーズにより低予算で制作が決まりました。ルーカスは、自ら当時の伝説的DJウルフマン・ジャックに出演交渉を、行い快諾されます。60年代の懐かしい音楽とともに完成した、誰もヒットを期待していなかったこの映画は、予想に反し全米で大ヒットしてしまいます。そして1973年のゴールデングローブ賞とアカデミー賞にノミネートされてしまいました。

映画監督として認められたルーカスは、いよいよ念願の映画を制作すべく準備に入ります。それは、子供の頃熱狂した漫画「フラッシュゴードン」の完全実写化でした。しかし、この作業は困難を極めます。残念ながら「フラッシュゴードン」の映像化権は既に押さえられ、ルーカスはこの権利を取得できませんでした。ルーカスは、仕方なく自分で「フラッシュゴードン」のようなスペースオペラを作り上げようとストーリーを考えることにしました。後に「スターウォーズ」と呼ばれるこのスペースオペラは「フラッシュゴードン」のほか、「猿の惑星」や黒沢明の「隠し砦の三悪人」から影響を受けています。

恩師コッポラは、ルーカスが成長する姿を見ていました。そして、自分の会社が傾くとルーカスに近づいてきました。そして、ルーカスと一緒に新作を手がけるべく動き出したのです。勿論世話になったコッポラを裏切るようなことはできません。しかし、当時のコッポラは制作費を使いすぎ、映画の現場は大混乱することが当たり前となっており、映画業界からは要注意人物となっていました。コッポラは、弟子のルーカスが描いていた新企画に興味を示しますが、ルーカスはコッポラに助けを求めませんでした。そして、もうひとつ大切に暖めてきた企画をコッポラに取られてしまいます。おろらく、当時のルーカスは、2つあった企画にコッポラが介入することを避けるため、ひとつをコッポラに渡してしまうという判断をしたのだと思います。
コッポラに渡した企画は、後に「地獄の黙示録」として完成します。この映画が完成するまでには、とんでもないエピソードが沢山存在します。現場にいる誰もが、映画は完成しないと思い、撮影は困難を極めたのです。しかし、不思議なことに映画は完成し、そかも非常に高い評価を得たのでした。しかし、コッポラは莫大な借金を抱え、心身共に疲労困憊状態となります。ルーカスは、この映画にはクレジットすらされていません。

「スターウォーズ」の企画を守ったルーカスは、脚本を持って各スタジオに出資を頼みに行きましたが、当時SF映画はヒットしないという理由で、どのスタジオも映画化に否定的でした。ルーカスは落ち込みましたが、めげずに脚本をさらに改良して行きました。そんななか、ひとりのスタジオ・エクゼクティブがこの脚本に興味を持ちます。当時20世紀フォックスにいたアラン・ラッド・jr.です。ラッドは、「スターウォーズ」製作に全面的に協力します。

20世紀フォックスが映画制作にGOサインを出したので、ルーカスは映画作りに入ります。当時SF映画などというものはチープな娯楽映画で、まともな映画ができるとは思われませんでした。しかしルーカスは、自分のビジョンを実態化するため、邁進します。まず撮影前に特殊撮影と音響会社を作ってしまいます。特殊撮影用の会社は、ILM (Industrial Light and Magic) です。この工房で、リアルな宇宙戦争の映像を作り出すことに成功します。SF映画にはダイナミックな音響が必要です。そしてルーカスは音響専門の会社、スプロケットシステム(後のスカイウォーカーサウンド12)を作り、音響に関する研究もはじめました。

映画制作費は、当初の予定を超えてしまいます。ルーカスは、自分の監督料を返上し、そのかわり映画がヒットしたら利益の40%と関連グッズの商品化権を貰います。ラッドを除く20世紀フォックスの役員は、「スターウォーズ」がヒットしないと予測し、製作途中で撤退をする方針でした。しかし、ラッドだけがこの企画を推進し、最後まで出資を支持します。フォックスは、どうせ当たらない映画なのだから成功報酬とMD権を若い我が侭監督に渡してしまうのです。
映画はさらに予算が超過し、ラッドが、かばいきれなくなった頃、ようやく完成します。ラッドはこのことが原因で20世紀フォックを解雇されてしまいました。

ルーカスは、「スターウォーズ」製作中に精神的な疲労をしてしまい、心身ともにボロボロになっていました。さらに映画がヒットするという関係者も少なく、映画公開時にはハワイに逃げてしまいます。少しでも早くハリウッドから逃げたかったのでしょう。しかし、そんなルーカスに信じられないニュースが届いたのです。「スターウォーズ」の大ヒットです。ルーカスは一夜にして映画史に残る大監督になったのです。そしてアカデミー賞を7部門も受賞していまいました。

その当時、ルーカスは、偶然ハワイに来ていたスティーブン・スピルバーグと出会います。そこで新しい企画が生まれます。そう、「インディ・ジョーンズ」です。
ルーカスは、この後、「スターウォーズ」3部作と「インディ・ジョーンズ」3部作を製作します。「スターウォーズ」の監督経験から、ルーカスは自分は監督に向いていないと判断し、プロデュース業に徹します。これが功を奏し、どの映画も大ヒットして行きます。

第3回は、映画制作者として大成功し、大金を手にしたジョージ・ルーカスのその後の人生を追いかけます。

ジョージ・ルーカス 1/3
ジョージ・ルーカス 3/3

George Lucas Rewrite 2008/07/12

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ジョージ・ルーカス 1/3 [スタッフ&キャスト]

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今回は、私の好きな監督&プロデューサーのジョージ・ルーカスについてです。今までも、スカイウォーカーサウンドスターウォーズインディ・ジョーンズスピルバーグなど涸れに関したトピックを書いてきているので今更記す必要もないような気もしますが、彼の人生を縦に見ていくことにしましょう。彼の作品作りのヒントが見えてくるかもしれません。

ジョージ・ルーカスは、1944年にカリフォルニア州。モデストで生まれました。この町はサンフランシスコまで車で2時間ほどのところにある田舎町です。実家は雑貨店を営んでいたようです。両親は、彼が生まれてしばらくすると、この雑貨店を売り、それを資金にしてクルミの農園を始めました。彼は高校までこの町で過ごし、映画と車に夢中になりました。確かにアメリカの田舎に住むと、若者の遊びといえば車と映画です。
ルーカスは、後にこの自分の体験を映画「アメリカン・グラフィティ」で克明に描きます。

ルーカスは、映画と言うよりむしろ車に興味があったようです。彼は車を改造したりしてレースに熱中していました。しかし、高校卒業直前に大事故を起こしてしまいます。この事故は新聞でも取り上げられるほど大きなもので、ルーカスは命はとりとめますが、けがをしてしまいました。

カーレーサーの夢を絶たれたルーカスは、地元のコミュニティー・カレッジに入学し、映画に没頭していきました。この大学で、彼は様々な映画オタクに出会うのです。そこで映画撮影に関する実験的な映画を作ったり、サンフランシスコに出てジャズを聴いたり専門書を読んだりして過ごしました。

そして、ルーカスは、南カリフォルニア大学(USC)に転校します。USCは、当時映画を勉強するための映画学科を創設していた先進的な学校でした。ルーカスは、ここで映画の撮影技法を学びます。それはコミュニティー・カレッジ時代に行った経験をさらに磨くことになりました。彼は、色、動き、スペースなど撮影に関わる理論を習得し、さらにシネマティック・モンタージュという新しい映画の製作技法に傾倒していきました。

大学を卒業すると、ルーカスはアメリカ空軍の士官になるべく志願します。しかし彼は沢山スピード違反をしていたため入隊ができませんでした。そこでUSCの大学院に進み、短編を作ります。これが「電子的迷宮THX 1138 4EB」です。そして1968年のフィルム・フェスティバルで優秀賞を受賞してしまいます。ルーカスはワーナー・ブラザースの奨学生として、フランシス・フォード・コッポラの新作「フィニアンの虹」の撮影現場での研修が認められました。コッポラはルーカスを気に入り、コッポラの作ったゾエトロープ・スタジオで「電子的迷宮THX 1138 4EB」のリメイクでありメジャー・デビュー作「THX 1138」の監督を任されることになりました。

こうして、ルーカスは、自分の望む道を絶たれるごとに、後で成功する道が開いてきました。もし、高校卒業直前に事故を起こしていなかったら、彼はレーサーの道を歩んでいたでしょう。もしコミュニティー・カレッジで、映画オタクと暮らしていただけだったら、きっと今頃はモデストの町で雑貨屋さんでも経営していたでしょう。もしアメリカ空軍に入隊していたら、どこかの戦地で命を落としていたかもしれません。
誰の力でもなく、ルーカスは映画監督になったのです。勿論本人の何にしても熱中するという性格がこの結果を生んでいるのですが、人生とはなんと不思議なものか、と思ってしまいます。

次回は映画監督した若きジョージ・ルーカスが、葛藤し成長していく時代について記そうと思います。

ジョージ・ルーカス 2/3
ジョージ・ルーカス 3/3

George Lucas Rewrite 2008/07/06

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スティーブン・スピルバーグ(2/2) [スタッフ&キャスト]


Steven Allan Spielberg

スピルバーグの第2回です。

前回でお話ししたように、スピルバーグは若くして映画監督になり、「ジョーズ
」での興行的成功と監督としての失敗を経験しました。
その後出会ったジョージ・ルーカスと一緒に制作した「レイダーズ失われた棺」では、予算とスケジュールを守り監督としての評価を得ました。
今回は、監督として一人前となったスピルバーグのその後をお話しします。

スピルバーグは、「レイダーズ失われた棺」の後、またSF映画にチャレンジします。それが「E.T.」(1982)です。制作費は1000万ドルでしたが、アメリカ公開時には3億ドルという当時の映画市場最大の収入を記録しました。「E.T.」は、「ジョーズ」「未知との遭遇」「レイダース」とヒット作を作り続けてきたスピルバーグ監督の最新作であること、宇宙人の顔を宣伝では使わず、皆がE.T.の動く姿を見たがったこと、素晴らしいポスタービジュアル、ジョン・ウィリアムズによるテーマ曲などがうまく絡み合い世界的な空前のヒットになっていきました。当時、日本では連日テレビでこの映画が取り上げられ、時にはニュースとして報道されました。そして、どの映画館でも立ち見客が溢れかえり、リピーターも続出しました。この記録は1993年の「ジュラシック・パーク」(これもスピルバーグ監督!)まで11年間塗り替えられることはありませんでした。

「E.T.」の大ヒットの後、スピルバーグは、友人のもとに戻ります。シリーズ化を約束していた「インディー・ジョーンズ」シリーズの第2作目を監督するのです。今回は、前作ほど歴史に立脚していないアドベンチャー映画として企画しました。この作品も興行的に大成功しますが、スピルバーグは後に自分の監督作の中で一番酷い出来映えだと語っています。しかし、この作品で出演していたケイト・キャプショーと再婚しました。


この頃から、スピルバーグはプロデュース業に進出します。多作な監督として既に有名でしたが、自らが監督として関わると制作できる映画の本数も限られてしまいます。そして、彼の元には沢山の企画や原作が持ち込まれるようになっていたのです。
スピルバーグは、まず自分の制作会社を設立します。その名前はアンブリン・エンタテイメント。高校生時代に作った映画のタイトルから名付けられました。このプロダクションのマークはE.T.が自転車に乗って月の前を横切るシルエットです。アンブリンは、ユニバーサル・スタジオ内にオフィスを構え、スピルバーグがプロデューサーとして作品を供給していきます。勿論自分の監督作品もこの会社が制作会社として機能しました。プロデューサーとしてアンブリンが制作した作品は、「グレムリン」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズ、「メン・イン・ブラック」、テレビドラマ・シリーズの「ER」などがあります。

1985年、スピルバーグ監督は新たな境地を開拓すべく野心的な文芸作品を制作しました。それがピューリッツァー賞を受賞した原作を映像化した「カラー・パープル」です。これ以降、メイジャー映画と文芸大作を交互に監督しさらに幅を広げることに成功します。太平洋戦争時の上海で日本軍を描いた「太陽の帝国」(1987)、同じく太平洋戦争時のナチスからユダヤ人を助けた実在の人物を描いた「シンドラーのリスト」(1993)、奴隷制度を描いた「アミスタッド」(1997)、ノルマンディ上陸作戦を壮大なスケールで描いた「プライベート・ライアン」(1998)、ミュンヘン・オリンピックの惨劇を描いた「ミュンヘン」(2005)などは、その芸術性の高さから沢山の賞を受賞しました。「シンドラーのリスト」では、初のアカデミー賞作品賞と監督賞を受賞、「プライベート・ライアン」で2度目のアカデミー賞を受賞したことは皆さんもご存じだと思います。

映画監督として大活躍し、さらに映画制作会社の社長としてヒット作をプロデュースし、相当多忙な生活を送っていたはずのスピルバーグは、1994年、ドリームワークスSKGを設立します。この会社はハリウッドのメジャースタジオと肩を並べる映画配給会社です。この会社設立の舞台裏をここでお話しすると膨大な時間を要するので割愛しますが、スピルバーグは、監督、プロデューサー、制作会社経営、そしてスタジオのエクゼクティブという人間一人がこなすことができない肩書きを持つことになります。しかも全ての仕事に邁進していくのです。どの仕事も名ばかりのものはありません。しかし、監督作品が減ることはありませんでした。
「ジュラシック・パーク」シリーズ、「A.I」(2001)、「マイノリティ・リポート」(2002)、「キャチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002)、「ターミナル」(2004)、「宇宙戦争」(2005)と年に1本はコンスタントに監督をしているのに驚かされます。

スピルバーグ監督の現場は非常に統率されており、権限が大幅に委譲されています。時には撮影当日に監督が初めてセットを見ることがあるようです。各スタッフは事前の数少ないミーティングでスピルバーグの演出意図を汲み、各パートが最大限のクリエイティビティを発揮するそうです。よって、他の監督のように細かな指示は出さず、現場での演出に集中しています。編集は、ルーカスが開発した衛星通信システムで世界中どこでもチェックできる体制が整っています。「プライベート・ライアン」をヨーロッパで撮影中にサンフランシスコで行われているCGと編集チェックを行った話は有名です。シリアスな戦争映画撮影中に、恐竜が暴れるエンターテイメント映画に指示を出すのは、とても難しいことです。それを難なくやり遂げてしまうのが彼の凄いところです。

最近のスピルバーグのお話を少し....
意欲的に立ち上げたドリームワークスSKGは、「シュレック」シリーズ、「アメリカン・ビューティ」、「あの頃ペニー・レインと」、「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」などのおおくの名作を製作・配給してきましたが、経営は立ちゆかず2005年パラマウント・ピクチャーズに買収されてしまいました。
スピルバーグは、「スターウォーズ3シスの復讐」である1シーンを監督しています。これは、かつて「スターウォーズ6ジェダイの帰還」をスピルバーグが監督するはずだったのですが、いろいろな問題で結局できなかったルーカスの贈り物だそうです。EP3を見るとスピルバーグ演出がどのシーンかすぐにわかります。
スピルバーグは人間的にとても魅力的で素晴らしい人柄です。誰にでも話しかけとてもフレンドリー、そして話し上手です。英語が苦手な日本人ジャーナリストにも分かりやすい英語で接してくれます。彼はインタビューでこう話しています。「私が有名人で、ニューヨークを歩くとほとんどの人が私の顔を知っていることは理解しています。しかし、私はそれに奢ることなくできるだけ一市民であろうと努力しています。車は自分で運転するし、買い物も自分で行くんです。ご近所とも普通にお付き合いします。」

スピルバーグはまだまだ現役の監督です。今後どんな作品を監督そしてプロデュースしていくのか楽しみです。そして、彼が生きた同じ時代に生き、公開時に劇場で彼の映画を見ることができることがとても幸せです。

★リンクは、過去のブログに飛びます。各作品や人物の詳しい解説をご覧ください。


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スティーブン・スピルバーグ(1/2) [スタッフ&キャスト]


Steven Allan Spielberg

いまさら語る必要もないほど有名な監督、プロデューサーです。
彼は、現在最も稼いだ監督であり、毎年「最も影響力のある映画人」でトップにランキングされています。

スピルバーグは、オハイオ州シンシナティで生まれ、3人の妹と共に育ちました。スピルバーグ家は、父親がコンピューターエンジニアだったため何度も引っ越します。

スピルバーグ少年が初めて見た映画はセシル・B・デミル監督の「地上最大のショー」だったそうです。
彼は小学生の時にアリゾナに引っ越し、8mmカメラを買ってもらいます。そのカメラを使い、撮影に夢中になり、子供ながらアクション映画を完成させます。そして父親の協力を得て、25セントの入場料をもらい近所の映画館で営業上映しました。13才の時には40分の戦争映画「Escape to Nowhere」を完成させ地元の映画祭で賞を受賞します。高校生になると、本格的に映画作りに着手、「Firelight」(1963)という映画を作りました。この映画の制作費は400ドル。そして近所の映画館で有料上映をして得た興行収入は100ドルでした。フェニックスの地元紙は、この映画を取り上げ「将来期待の映画監督」と報道したそうです。
この経験は後のスピルバーグに大きな影響を与えます。実際にお金をもらい、映画館でお客さんの生の反応を見ることができたのです、ここで、彼は映画でお金を得ることの難しさとお客さんを喜ばせることの楽しさを知ったのでした。

映画少年は、当然映画監督になりたいという思いが強くなり、2つの大学にアプライ(出願)します。ひとつは、UCLAのSchool of Theater, Film and Television、もうひとつは南カリフォルニア大学(USC)のSchool of Cinema-Televisionです。この2つの学科は、映画業界やテレビ業界で活躍したい学生が入学していました。そして卒業生は、実際にエンターテイメント産業で働くことがおおかったのです。
しかし、高校の成績があまり良くなかったスピルバーグは、2つの学校から入学を拒否されます。そして、仕方がなくカリフォリニア州立大学のロングビーチ校に入学しました。この学校でもスピルバーグは映画を作り続けたようです。

スピルバーグは、大学在学中、給料のないパートタイムの仕事をユニバーサル・スタジオで開始します。主な仕事は編集アシスタントです。そこで彼は空いた時間を使い、初めての24分の短編作品を完成させます。これが「Amblin'」(1968)です。この短編をユニバーサル・スタジオのテレビ部門の副社長シドニー・シェインバーグが見る機会がありました。彼女は、短編を気に入り、スピルバーグと監督契約を結びます。スピルバーグは、大学を辞め、ユニバーサル・スタジオ専属のテレビ監督として監督のキャリアをスタートさせました。

スピルバーグは、若くして数々の有名テレビドラマに関わります。「ナイト・ギャラリー」「刑事コロンボ」などのいくつかのエピソードを監督し、才能を開花しました。小学校の頃から自分で脚本を作り、8mmカメラで撮影し現像し編集してきた経験から、彼は、現場では誰にも引けを取らずに監督ができました。
そんな若き監督に、新たな仕事が舞い込みます。それはテレビ用の映画監督でした。日本で言うところの2時間ドラマの監督です。今までは、既にできあがったドラマシリーズの1エピソードを監督していたのですから、全て自分のカラーになる独立した作品を監督するのは、それがたとえテレビ番組であれ、大きなチャンスです。スピルバーグは、この仕事に没頭します。取り扱う企画は「Duel」という地味な話でした。
しかし、スピルバーグは誰も想像し得ない手法でこの原作を映像化します。ある男が、田舎の道を走っていると、大型トラックに追いかけられるという単純なプロットが、緊迫したサスペンス映画として完成したのです。このテレビ映画は、あまりの素晴らしい出来映えのため米国以外では映画館で映画として公開されました。
よって、スピルバーグのデビュー作は、米国以外では「Duel」(邦題「激突!」)なのです。

米国でのスピルバーグのデビュー作は「続・激突カージャック」(へんな邦題をつけたものです)になります。しかしこの映画は興行的に失敗に終わります。

ユニバーサルのプロデューサーであったリチャード・ザナックとデビッド・ブラウンは、落ち込んでいたスピルバーグに新作の監督をオファーします。この企画は、ベストセラーだった「ジョーズ」というパニックものでした。ユニバーサルは、この映画をブロックバスター映画として大々的に宣伝しようとしていました。映画を公開するだけではなく派手な宣伝を行い、関連グッズを製作・販売し映画を時代のブームにするという仕掛けです。現在ではこのような手法の映画宣伝は沢山ありますが、当時は画期的なアイデアでした。

スピルバーグは、このオファーを受け、新作に没頭します。しかし、若かった彼はいつまでも納得のいくまで撮影を続け、完成が大きく遅れてしまいます。さらにジョーズの模型は海水にやられ思うように動かず、どんどんと時間が過ぎていってしまいました。スピルバーグは諦めることなく撮影に没頭しました。
結果、映画の制作費は高騰し、スケジュールも遅れてしまいます。なんとか映画が完成したもののプロデューサー陣からは愛想を尽かされてしまいました。

これほどまでに追い込まれても、映画「ジョーズ」は世界的に大ヒットしました。そしてエンターテイメント映画にも関わらず映画の出来も絶賛され、アカデミー賞を3部門受賞します。

ユニバーサル・スタジオは直ぐに次の一手をうってきます。そう続編の制作です。しかし、スピルバーグと主演のリチャード・ドレイファスは、別の企画にのめり込んでいきます。この時点でユニバーサル・スタジオと契約を終え、スピルバーグは、コロンビア・ピクチャーズで新作を監督します。これが「未知との遭遇」(1977)です。この映画はスピルバーグが少年時代に作った「FireLight」をベースにしています。ストーリーは難解ですが、今までは恐れられてきた宇宙人を友好的に描いたこと、そして素晴らしい宣伝により、大ヒットします。
スピルバーグは、この作品でアカデミー賞の監督賞にノミネートされます。30代前半にして、ハリウッドで映画人として評価され、商業的にもヒットメーカーという地位に上り詰めるのでした。しかし、「金と時間のかかる監督」というレッテルもついてしまいました。

「未知との遭遇」の大ヒットにより、スピルバーグはハワイでバケーションを楽しんでいました。そこで出会ったのがUSCで有名人だったジョージ・ルーカスです。自分が入ることのできなかったUSCで、「THX-1138」というSF映画を撮り、フランシス・コッポラから融資を受けた伝説のルーカスは、自分の作ったSF映画が大コケすることを予期し、ハリウッドからハワイに逃げるように移動してきたところでした。そんなルーカスとスピルバーグのもとに届いたのは、ルーカスのSF映画「スターウォーズ」が全米で大ヒットしているという嬉しいニュースでした。二人は、お互いを褒めあい、尊敬し合ったそうです。そんな時、スピルバーグは自分の次回作について構想を話しました。どうしても007シリーズを監督したい、と。ルーカスは「それならもっと面白い企画があるよ」と逆提案します。これが後の「インディ・ジョーンズ」シリーズとなります。

スピルバーグは、ジョージ・ルーカスの映画制作会社ルーカスフィルムで、「レイダース失われた棺」を監督します。この撮影では、プロデューサーであるルーカスから徹底的にコスト管理を学びます。セットは使い回し、フィルムも節約、衣装も少なく・・かなり細かいところまでルーカスは指示をだしました。この映画以降、スピルバーグは「予算を守り、撮影が早い」と言われるようになりました。

次回は、スピルバーグが成功してからの人生についてお話しようと思います。

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ジョニー・デップ [スタッフ&キャスト]


Jonny Depp

今回は、誰もが知っている人気者、ジョニー・デップの紹介です。
彼は、生まれながら持っている人柄と交友関係で、現在の地位を築いたハリウッドでも珍しい俳優です。

ジョニー・デップは、1963年にケンタッキー州で生まれ、フロリダで育ちました。典型的なアメリカ南部の育ちです。保守的な環境で育ちますが、デップはロックに憧れ、15才の時学校に行くのを止めてしまいました。そして、子供ながら音楽活動に没頭します。数々のバンドに出たり入ったりしながら成長していくのですが、ここで沢山の人生勉強をしたようです。

その後、彼は当時の妻ロウリ・アリソンと共にロサンゼルスを訪れ、俳優の道を目指します。アリソンは、彼女のつてでニコラス・ケイジをデップに紹介します。このことがきっかけでデップはハリウッド映画への切符を手にすることができました。それが「エルム街の悪夢」(1984)です。このホラー映画の傑作は、当時世界的に大ヒットします。そして、ちょい役だったデップも少しだけ世界に知られることになりました。しかし世の中はそんなに甘くはありません。この後、デップは「プラトーン」(1986)などに小さな役で映画に出演し続けます。いわゆる下積み時代です。

彼の地味な俳優生活に転機が訪れたのは、映画ではなくテレビでした。テレビドラマ「21 ジャンプ・ストリート」でデップはお茶の間の人気者になっていきます。それでも、この人気はアメリカの若者に限定されていました。

1990年、彼のその後の人生に大きく関わってくる監督、ティム・バートンと出会います。映画「シザーハンズ」が制作され公開されると、この不思議なファンタジーは、スタジオの予想を上回る大ヒットとなります。そして、影のある主役のパフォーマーを演じたデップの評価が世界的に高まっていきました。デップにとって、彼のキャリアのきっかけを作ったのはこの作品です。
その後も、デップとバートンの関係は強く、バートンが監督する作品のほとんどでデップは主役を演じていきます。

人気が出た後、デップは他の有名俳優と同じようにスタジオからオファーされる娯楽作には積極的に参加しませんでした。これは、子供の頃からエンターテイメント業界に身を置き、沢山の苦労人の人生を見てきたからでしょう。マスコミによる作られた人気に乗ることはせず、地味に自分がやりたい役を演じていったのです。ティム・バートンと再び組んだ「エド・ウッド」(1994)やジム・ジャームッシュ監督と組んだ「デッドマン」(1995)などは、モノクロ映画ですが、積極的に難しい役に挑んでいます。「ラスベガスをやっつけろ」(1998)でも、ドラッグにはまった役を怪演しています。

1993年、彼に不幸な出来事が突然襲います。それは、デップが経営するロサンゼルスのバー「バイパールーム」で起きたドラッグ事件です。このバーに来ていた若手の人気俳優リバー・フェニックスが、店を出たドアの前で急死してしまいました。この事件により、デップは長い間、警察から事情聴取を受けることになってしまいました。
さらに1993年にニューヨークで、1999年にロンドンで逮捕歴があります。どちらも些細な事件に巻き込まれたのもです。

パートナーもどんどん変わっていきました。彼と一緒にロサンゼルスに来たアリソンとは別れ、ジェニファー・グレイ、シェリリン・フェン、ケイト・モスと婚約をしていた時期があります。「シザー・ハンズ」で共演したウィノナ・ライダーとは、かなり本気で結婚するつもりだったようで、デップの腕にはWinona Foeverという刺青を彫ってしまいました。現在は、ちょっといじってWino Foeverとなっています。

このようにプライベートでの波乱があるなか、彼はだんだんメジャー映画にも進出していきました。これは、ティム・バートン監督がメジャーになっていったことに影響を受けています。「スリーピー・ホロウ」(1999)など、バートン作品が世界でメジャー配給され、その作品に主演するデップには、数多くのオファーが来るようになり、彼なりにメジャー映画でありながら自分のやりたい役を模索し始めたのです。

そんな最中に舞い込んできたのは1本の海賊映画でした。ジェリー・ブラッカイマーから持ち込まれたディズニーランドの「カリブの海賊」をテーマにした活劇は、ストーリーも良くできており、自分の子供に見せるにも適した作品だと思い海賊役を引き受けました。この映画の主人公は、オーランド・ブルーム演じるウィル・ターナーです。エンターテイメント映画の脇役として良いポジションでもありました。
この映画「パイレーツ・オブ・カリビアン呪われた海賊たち」が公開すると、予想以上の大ヒットとなりました。そしてデップは完全に主役を食ってしまっていたのです。映画を見終わった観客は誰もがデップを主役だと思いこんでしまいました。

デップは、これほどまでの反響を予想していませんでした。だからといって、この人気を利用して、メジャー俳優になるつもりもなかったのです。彼は、その後も相変わらず地味な作品に出演し続けていきます。「シークレット・ウィンドウ」(2004)「ネバーランド」(2004)など、映画ファンの中では評価の高い小さな作品で演技を磨いていくことを忘れませんでした。

ハリウッドは彼を放って置くわけはなく、オファーは相変わらず殺到しています。しかし、それらの殆どの出演を断り、最近は、一緒に仕事をした仲間を大切にして仕事を選んでいるようです。
ティム・バートン監督とは相変わらず同じスタンスで仕事をしています。「チャーリーとチョコレート工場」(2005)「スイニー・トッド」(2007)と主演をしています。
ロバート・ロドリゲス監督とも仲がよいようで必ず彼の作品にも出演しています。
パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズにも当然出演しており、その後の2作「パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト」(2006)「パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド」(2007)にも主役の相手ジャック・スパロウ役を演じています。

現在も彼の生き方は変わっていません。自分の納得する役を演じていくだけです。少し変わったのは、やっと信頼できるパートナーと巡り会って幸せなプライベート生活を送っていることでしょう。フランス人の歌手であり俳優であるバネッサ・パラディと子供をもうけ、現在はフランスの田舎で子育てを中心にのんびりと生活しているそうです。

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フランシスコ・フォード・コッポラ [スタッフ&キャスト]


Francis Ford Coppola

映画監督、脚本家としてアカデミー賞を多数受賞し、現在は娘ソフィアの父親として、そしてワイナリーのオーナーとして有名な人物です。彼は正に映画の主人公のように劇的な人生を送ってきました。

デトロイト交響楽団のフルート奏者で作曲家のカーマイン・コッポラの次男として1939年にミシガン州デトロイトに生まれます。2年後、父親はNBC交響楽団に移り家族はニューヨーク郊外のロングランドに引っ越しました。ここでコッポラは子供時代を過ごします。10才の頃、買ってもらった8mmカメラでさっそく映画作りを始めます。彼はひとりで映画を撮影し映画の面白さにはまっていきました。
大学ロサンゼルスのUCLAのフィルムスクールに入学し短編映画を制作しました。その当時コッポラはドアーズのジム・モリソンと出会いおおきく影響を受けました。

1960年代に入ると、コッポラはプロとして映画業界に入ります。まずは低予算映画の帝王であるロジャー・コーマンの下で脚本を書く仕事に従事しました。そして何本かの映画を監督します。ブロードウェイ・ミュージカルを映画化した「Finian's Rainbow」では、撮影をサンフランシスコ郊外のナパバレーで行いましたが、ここの光だとコントラストが強すぎてハリウッドで撮影したシーンとの繋がりがうまくいきませんでした。この頃から彼はナパバレーと繋がりがあったのです。

その後、監督として開花しなかったコッポラは脚本家として評価されます。1971年に脚本を担当した「パットン」がアカデミー賞を受賞します。これを機に暖めてきた映画を監督するチャンスを得ます。これが「ゴッドファーザー」です。この映画は、長編ながら世界中で大ヒットし、アカデミー賞で最優秀作品賞を受賞しました。この作品によりコッポラは映画界でトップに上り詰めました。その後、「カンバセーション盗聴」「ゴッドファーザー PART2」と大成功を記録します。「カンバセーション」はカンヌ映画祭のパルム・ドール賞を受賞、「ゴッドファーザー PART2」は続編としてアカデミー賞を受賞し、現在でも評価の高いシリーズとなっています。この頃がコッポラにとっての最盛期だったのではないでしょうか。

彼は、後輩のジョージ・ルーカスに才能を感じ、ルーカスの初監督作「THX-1138」に出資、引き続き「アメリカン・グラフィティ」にも出資します。ルーカスへの支援は大成功し、その後コッポラのルーカスへの影響は大きくなりました。

コッポラは、自分の映画に家族を参加させるようにもなっていました。これは、おそらくイタリア系移民の血を引いているからでしょう。「ゴッドファーザー」シリーズの音楽は父親のカーマイン・コッポラが担当しています。妹のタリア・シャイアを女優として出演させています。

この絶頂期は、長くは続きませんでした。続く「地獄の黙示録」(1979)の撮影に入ったコッポラは現場で大変な目に遭います。もともとこの企画はジョージ・ルーカスが考案したものだったのですが、事実上コッポラが奪い取ったのでした(詳しくはジョージ・ルーカスの項)。撮影現場は混沌とし、俳優は監督を馬鹿にして映画は高額な制作費を投入したにも関わらず完成不能に陥ってしまいました。映画は制作費が底をつき、コッポラの制作会社アメリカン・ゾエトロープ社は破産してしまいます。詳しくは「地獄の黙示録」のドキュメンタリー、「ハート・オブ・ダークネス」を見るとわかりますが、この辛い辛い体験はコッポラの精神をおかしくしていきました。
それでもコッポラは映画の完成を諦めず、強引な編集で映画を完成させました。「地獄の黙示録」は、予想を反し大ヒットしました。映画は"新たなハリウッド世代の到来"と評価され、初めて本当のベトナムを描いた傑作と呼ばれるようになりました。ここでコッポラは気持ちを持ち直しました。

しかし、1927年制作の映画「ナポレオン」のレストア作業をしますが、興行的にうまく行きませんでした。そしてラスベガスを舞台にした切ない恋愛ドラマ「ワン・フロム・ザ・ハート」(1982)は、興行的に大失敗となり、2度目の破産に追い込まれてしまいました。

立ち直れないコッポラに助けの手を差し伸べたのは、かつて助けてあげたジョージ・ルーカスでした。ルーカスは、「地獄の黙示録」と引き替えに守った自分の企画「スターウォーズ」が大成功し、富豪になっていました。本来ならば自分の企画を奪った人に対し敵意を持つのですが、ルーカスは、それまでの恩を感じ続けていたのでしょう。
ルーカスは、ディズニーランドに作る新しいアトラクション「キャプテンEO」の監督をコッポラに任せます。「キャプテンEO」は新しいタイプのエンターテイメント・ショーです。トゥモローランドに作られた劇場で見る3D映画です。主演は当時大人気だったマイケル・ジャクソン。プロデューサーはジョージ・ルーカス。製作はルーカスフィルムです。この夢のスタッフ&キャストが見事な映画を作ったのです。

この映画により、コッポラは復活します。彼は自身のヒットシリーズ「ゴッドファーザー」のパート3を監督します。評価はそれほど高くはありませんでしたが、興行的にはまずまずの結果となりました。ここで娘のソフィアが女優デビューしています。彼女は、この後、映画監督に転校し、現在では大成功を収めているのは皆さんがご存じの通りです。

しかし、この安定も続きませんでした。コッポラの長男がボート事故で突然死亡してしまいます。この悲劇によりコッポラはショックを受けますが、細々と映画監督やプロデューサーを続けます。

そんな悲しい人生を慰めたのは、彼の家族でした。もうひとりの息子ローマン・コッポラは、「CQ」で映画監督としてデビュー、現在も映画監督、カメラマンとして活躍しています。甥のニコラク・ケイジは、俳優として成功していきました。そして愛娘ソフィアは、「ロスト・イン・トランスレーション」でアカデミー賞を受賞し「マリー・アントワネット」は日本で大ヒットしました。

近年、コッポラは、ナパバレーに広大なワイナリーを購入し、経営しています。ここで作られたワインは大変評判が良く、特に「ルビコン」というワインは世界のベストワインに選ばれました。現在でもコッポラ・ワインは事業として大成功を収めており、コッポラはアメリカの億万長者のひとりとなりました。
プロの世界に入った頃、自分が映画の撮影に使った土地で成功を手にするなんて、当時は夢にも思わなかったのではないでしょうか。

コッポラのワインは、六本木にできたミッドタウンのコッポラの店で飲むことができます。サンフランシスコのコッポラ・ワイナリーに行くと、「ワン・フロム・ザ・ハート」の小道具、「地獄の黙示録」の絵コンテ、「ゴッドファーザー」の机などコッポラ映画に関するグッズが展示してあります。コッポラの人生を集積したワイナリーは映画ファン必見の場所となっています。

私は、偶然2003年のアカデミー賞翌日にコッポラ・ワイナリーを訪れました。前日の授賞式では娘の受賞を喜んでいる父親の顔がテレビに映し出されていました。ワイナリーには、至る所に「おめでとう!ソフィア」の垂れ幕がかかり、店では娘の名前のついたスパークリングワイン「Sofia」が売られていました。この時、偉大な映画監督フランシス・フォード・コッポラの人生に区切りがついたと私は感じました。嬉しくもあり、寂しい日でした。

現在は、彼は映画監督をほとんどしていません。十分な資産を持ち、ホテルやレストランを経営する実業家としてのんびりと余生を送っているように見えます。彼の家族はそれぞれ成功を収めています。辛い監督時代、会社の倒産はすでに過去のものとなりました。

人生としては幸せなようですが、映画ファンとしてはかつての彼のようなテーマ性のあるガツンとくる映画をもう一度見てみたいものです。

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周防正行 [スタッフ&キャスト]

周防正行

今回は11年ぶりに映画監督として復活した周防正行監督について記します。

Shall we ダンス?」で、世界的に有名となった周防正行について、皆さんはどのくらいご存じでしょうか?彼はアメリカでは一番成功した日本人監督です。アメリカ人のほとんどは彼を知っています。まずは、彼の過去に遡りましょう。

周防は、1956年東京の生まれです。父親は国鉄の運転手で、天皇が乗るお召し列車の運転手を務めた優秀な方だったようです。そんな父親に育てられ、立教大学に入学します。そこで彼に転機が訪れます。在学中に蓮實重彦の映画論の講義に出席し映画について大きな影響を受けるのです。そして、映画にのめり込んでいきます。

周防は学生時代、特に映画サークルに入ることもなく、ある小劇団のスタッフをすることに情熱を傾けていました。彼は、劇団の団員にある情報を聞きます。その劇団員が出入りしている新宿ゴールデン街にあるバーに映画監督である高橋伴明が出入りしていることを知るのです。早速そのバーに出向き、高橋監督に自分をスタッフとして雇って欲しいと直訴します。

丁度、高橋プロを設立したばかりの高橋監督はすぐにその申し出を受諾します。そして周防にとっての映画人生が始まりました。当時は、ピンク映画を中心に活躍していた高橋、当然周防もピンク映画の助監督という立場で現場に参加していきました。初めての仕事は、カットがかかったら、女優にタオルを掛ける係だったそうです。そんな彼は低予算映画の制作を通じ、様々な仕事を覚えていきます。いかにフィルムを無駄にせず映画とるのか、スタッフの動かし方、キャストとのつきあい方など基本的な現場の仕事や立ち振る舞いは高橋組で実地体験をしながら学習していったそうです。中でも完成台本を作るのが得意だったようで、映画完成後、撮影したレンズまでもが書き込まれている完成台本の完成度は当時も驚かされたようです。しかし高橋監督自身は完成した映画にそれほど執着心がなかったようで、周防の作った完成台本は、そのまま倉庫に眠っていたようです。

その後、高橋監督はディレクターズ・カンパニー設立と共に高橋プロを解散します。ディレカンに誘われた周防は、それに加わらず、フリーのディレクターとして独立します。そして、ピンク映画時代に周防の面倒を見てくれた磯村一路監督が後押しして「変態家族兄貴の嫁さん」で監督ビューを果たします。この映画、徹底的に小津安二郎の映画を模倣しています。小津安二郎を敬愛している周防は、小津の映画をそっくり真似てみたいと思い立ち、このような作風になりました。よく小津のパロディやオマージュだと書かれている記事を見かけますが、そうではなく、これは完全なる模倣です。周防自身、一度だけの挑戦と心に決めていたと明言しており、事実、その後の周防の作品には小津の赤裸様なかつ直接的な影響も色合いもなく周防独自の映画表現ととなっています。
「変態家族」の初号試写の前、周防は彼の映画業界に入るきっかけとなった恩師蓮實に手紙を書きました。生徒であった自分が初めて監督として完成させた映画の初号試写への招待状です。初号当日、恩師は試写会場に足を運んでくれました。上映後に会話はできなかったそうですが、後に素晴らしい評価を雑誌に書いてくれていたそうです。この評価が人生で一番嬉しいものだったと周防は後で語っています。

「変態家族」以降は、大きな仕事になかなかありつけませんでしたが、彼は監督業以外の仕事は断り続けます。今後は「監督」と名のつく仕事以外やらないと決めたそうです。そして当時はやっていたカラオケビデオやテレビドラマの監督などをしながら生活を続けていきました。

1987年、ある制作会社から映画のメイキング番組制作の依頼がやってきます。それは伊丹十三監督の「マルサの女」という映画の密着でした。このメイキング番組の監督をいう仕事を引き受けた周防は伊丹組の現場に入り、メジャー映画の制作現場を見続けます。このとき、周防は伊丹監督から映画作りに関する様々なことを勉強させられました。そして「マルサの女」と共にメイキング番組「マルサの女をマルサする」も高い評価を得ることになりました。

この頃、大映(現角川映画)にいたプロデューサーから周防に声がかかります。桝井と名乗るプロデューサーは、自分の企画の監督をやらないかとアプローチしてきましたが、この企画は成立しませんでした。そこで、なにか新しい企画をできないかと探していたところ、ピンク映画時代の先輩である磯村の妻から「ファンシイダンス」という面白いマンガがあると提案されます。二人はこの企画を映画化することに決めました。「ファンシイダンス」(1989)は、大ヒットこそしませんでしたが、映画業界で大評判となります。そして、桝井プロデューサーと周防監督の二人組は、続いて「シコふんじゃった」(1991)を制作します。この大学の弱小相撲部を舞台にしたコメディは大反響となります。

その後、周防監督は、配給会社の東宝から宝塚歌劇団に関する映画企画の以来を受けました。東宝としては同社のもうひとつの柱である宝塚をテーマにしたコメディを作ることで相乗効果をねらったのです。周防はしばらく宝塚をリサーチします。しかし、どうしても面白いストーリーラインが描けずにいました。そんなとき、周防は、ミュージカルではなくボールルームダンスに出会ってしまいます。いい大人が変な格好をしてまじめに踊る様はとても滑稽に思え、周防はこの社交ダンスを映画にしてみようと思います。

綿密なリサーチの後、完成した台本はとても面白く、エンターテインメント映画として成立しそうでした。その頃、桝井は大映を退社し、映画制作会社を起こします。その会社設立には磯村監督、周防監督も参加し、アルタミラピクチャーズという小さな会社が設立されました。この会社の社運をかけた作品がこの周防作品だったのです。

映画は、なんとか完成し、公開直前に「Shall we ダンス?」というタイトルが決定し、公開されます。しかし、配給の東宝は、この映画がそれほどヒットするとは思わず、公開は期間限定で劇場看板すら作りませんでした。さらに公開日は、1年でもっとも客が入らない2月。これでは、ヒットする映画もヒットしない環境でした。

宣伝費も潤沢ではなく、なんとなく公開されなんとなく上映が終了してしまうと思われたのですが、「Shall we ダンス?」は大ヒットします。公開館数は増え、映画はロングラン興行になりました。これは、誰も予想していなかった事態でした。

そして、その年の日本アカデミー賞ではほとんどの賞を独占してしまいました。

その後、周防はフィルムを抱え海外に旅立ちます。そしてアメリカで英語字幕付きの公開を行います。字幕を嫌うといわれていたアメリカ市場ですが、実はそんなことはなく、面白ければヒットするのです。「Shall we ダンス?」は、アメリカで大ヒットとなりました。

当然、アメリカではアカデミー賞の外国映画部門にノミネートしようという機運が芽生えてきました。しかし、日本の閉鎖的な映画業界はこれを拒否してしまいます。この時の日本映画代表は某有名監督の映画でした。

周防はそんなことはものともせず、走り続けます。そしてリメイクの話がやってきます。このリメイクには、作品の内容だけでなく契約など膨大な労力が必要となりました。結果、リメイク版は2003年に世界公開されました。
「Shall we ダンス?」という映画を企画してから10年近い時間が経過してしまっていました。

周防は、この間「Shall we ダンス?」だけに没頭していたわけではありません。彼は新たに様々な企画に関しリサーチを続けていました。そして、その中の1つである痴漢えん罪事件について数年をかけ綿密なリサーチを行っていたのです。

「Shall we ダンス?」公開から11年後の2007年、遂に周防の新作が登場します。タイトルは「それでもボクはやってない」。今回は、コメディ色をなくし、社会派映画となっていますが、試写会の評判は上々です。

さて、この映画、どう評価されるのでしょうか。そして、次回作は何年後に制作されるのでしょうか。今後も楽しみな監督のひとりです。


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レオナルド・ディカプリオ [スタッフ&キャスト]


Leonardo DiCaprio

子役から大人のスター俳優になることは非常に難しいことです。おおくの子役が大人になる前にハリウッドを去っていきます。ディカプリオは、子役からハリウッド・セレブリティに勝ち上がった数少ない俳優のひとりです。

1974年ロサンゼルス生まれ。本名は Leonardo Wilhelm DiCaprio です。両親はドイツ系でしたが、彼が1才の時離婚してしまいます。最初の活躍の場は「ロンパールーム」という子供向け番組でしたが、言動が良くないという理由で解雇されてしまいます。その後、コマーシャルやテレビドラマ「ペアレントフッド」で活躍するようになりました。このとき知り合ったトビー・マクガイアとは、現在も親友です。

子役の頃、ディカプリオは、エンターテイメント業界に馴染めませんでした。これはこの業界の子役では当たり前のことで、役にあわないと容赦なく切り捨てられ、撮影に出向いても仕事がなかったり、スタッフに冷たくされたりしたようです。子役は、世界中どこにいても精神的に辛い状況に置かれます。

15才の時、「クリッター3」で映画界に進出する足がかりを得ます。この頃からディカプリオは、俳優という仕事が好きになっていったようです。

その後、ボディーヒート」(1992)で脇役を得、「ボーイズライフ」で主演に抜擢されました。長年俳優としてテレビ業界でがんばってきたディカプリオは、この主演が自分にとってとても重要なチャンスだと認識していました。そして、彼がそれまで経験してきた全てを出し切ろうと決意します。「ボーイズ・ライフ」で父親役を演じたロバート・デ・ニーロに信頼された彼は、デ・ニーロにより映画業界で評判が広がっていきます。

これがきっかけで、若くして演技力を発揮するチャンスに恵まれるようになったディカプリオ。業界で話題の新人と注目されるようになるにはそう時間はかかりませんでした。
彼の俳優としての転機は「ギルバート・グレイプ」でしょう。知的障害を持つ少年を熱演し、アカデミー賞でノミネートされてしまいます。共演したジョニー・デップからも絶賛され、16才にして、スターダムにのし上がってしまうです。

しかし、その後は低迷期が続きます。様々な作品に出演しますが、それほど注目されませんでした。そんな中、ディカプリオは、演技に磨きをかけていきます。この頃、彼は「俳優という職業はただの金儲けではない」という発言をしています。10代にして、エンターテイメント業界の影と光を見てしまったからならではの意味深い言葉です。
「クイック&デッド」(1995)では、シャロン・ストーンに呼ばれカウボーイを演じます。
「バスケットボール・ダイアリーズ」では、ヘロイン依存症の高校生を演じました。この作品では薬物の禁断症状の演技でファンを驚かせました。

20才を過ぎると、「バスケットボール・ダイアリーズ」で共演したマーク・ウォルバーグにかつてからの親友であるトビー・マグワイアが加わり、3人で夜遊びをするようになります。この光景は、当時マスコミのターゲットとなり、ゴシップネタが時々流れるようになりました。しかし3人の絆は固く、お互いを守るようになりました。ディカプリオは、辛い状況に立っても、それをプラスの方向に作用させることが得意なようです。

若くして注目されるようになったディカプリオは、俳優としては経験豊富で、今後の進路にかんしても自分自身で熟考していたそうです。彼には様々な役へのオファーがありましたが、本人は一貫して選ぶ基準を持っているようです。それは彼が演じる役に悲劇性があるということ。確かに今まで演じてきた役は、ストリーの中で悲劇に見舞われます。そういう役にやりがいを感じているのだそうです。

1996年。バズ・ラーマン監督の「ロミオとジュリエット」では、今までにないロミオ像に魅力を感じオファーを受けます。そしてディカプリオは、おおくの女性を魅了してしまいます。「ロミオとジュリエット」は、彼の今までのキャリアの中で一番のヒット作となり、この作品で彼は集客力があることも証明してしまいました。

そんな中、新しいプロジェクトの話が舞い込んできます。彼は200万ドルのギャラで「タイタニック」(1997)に出演します。元々、この手の大作は敬遠していたのですが、共演のケイト・ウィンスレットからの強力なオファーにより出演を決意します。そして撮影現場にはいると、誰もがこの役を彼の当たり役だと思うようになっていきました。
そして「タイタニック」は彼の人生を変えました。悲劇性のあるストーリーとそこで巻き起こるラブストーリーは世界中の観客を魅了し、映画は大ヒットしました。この作品でディカプリオは、単なる俳優を超えたスーパースターへと変貌を遂げます。
「タイタニック」は、全世界で10億ドル以上という史上最高の興行記録を打ち立てロングラン上映となり、さらにアカデミー賞では11部門受賞してしまいます。

ディカプリオは、ゴールデン・グローブ賞と全米俳優組合賞の男優賞候補になります。しかし、アカデミー賞では賞を取ることができず、落ち込んだそうです。そんな辛い状況下でも彼は行動を慎み、状況を冷静に受け入れました。

その後、何本かの作品に出演します。誰もが彼の次の大作を期待しましたが、そのような作品には出演せず、地味な作品を選んでいきました。

ちょうどその頃、2000年のアースデイではイベントの議長を務め、ディカプリオは、環境問題に関心を示しました。しかし、同時期にクランクインした「ザ・ビーチ」(2000)で、マヤビーチを破壊したとしてタイの環境保護団体は制作サイドを糾弾します。
さらにディカプリオは「あのころ僕らは」の上映中止を求めて訴訟を起こします。共演のトビー・マグワイアと、短編作品を無断で長編にしたスタッフを非難。上映は国外のみとなりました。
この時期は、ディカプリオにとって辛い時期でした。やることがなかなかうまく行かず低迷を続けたのです。

2002年に入ると、「タイタニック」に次ぐ大作への出演が決定します。それがマーティン・スコセッシ監督の「ギャング・オブ・ニューヨーク」です。ディカプリオは、1000万ドルという高額の出演料で契約をしたことも話題となりました。スコセッシ氏との親密な関係やダニエル・デイ・ルイスとの共演というニュースが頻繁に報道され、「タイタニックのディカプリオ」というイメージから脱却できる作品に出会えたのです。しかし、映画の興行自体は芳しくなく、残念な結果に終わります。

同じ時期に公開された「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002)では、コミカルな演技をして、ディカプリオは、むしろこちらの作品で評価されます。スコセッシに続き、スピルバーグ監督との仕事は、彼にとってまたもや大きな前進となったのです。結果、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は「ギャング・オブ・ニューヨーク」の2倍の興行を記録します。

次にディカプリオが仕掛けたのは、2004年の「アビエイター」です。この作品で彼は主演だけでなく製作総指揮も手がけました。ハワード・ヒューズの若い時代を描いた伝記です。監督はマーティン・スコセッシ。この作品はアカデミー賞で5部門を制覇しました。ゴールデン・グローブ賞では、作品賞と主演男優賞を受賞します。自らの企画でディカプリオは遂に俳優として賞を受賞できたのです。

ディカプリオとマーティン・スコセッシ監督は新作「デパーテッド」で3度目のタッグを組みました。映画は大ヒットし、今年のゴールデン・グローブ賞では、再びディカプリオが主演男優賞にノミネートされています。

子役から、誰もが認める俳優、そしてプロデューサーへと、常に前進を続けるレオナルド・ディカプリオ。彼は、今後、自分の制作会社から作品を送り出そうと画策しているようです。

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マット・デイモン [スタッフ&キャスト]


マッド・デイモン

今回は、謙虚で親しみやすい性格で友人が多いハリウッド・スターを紹介します。

マット・デイモンは、1970年、マサチューセッツ生まれ。父親は大学教授、母親は投資銀行家でした。しかし彼が2才の時両親が離婚し、その後は母親とコミューンで育ちました。ベン・アフレックと出会ったのは、デイモンが10才の時です。二人はリトルリーグで知り合い、その後は常に一緒でした。以降、アフレックとは親友として仕事でもプライベートでも協力し合って生きています。

デイモンは成績優秀でしたが、親友のアフレックは子役としてテレビシリーズに出演していた関係もあり、アフレックに影響されながら勉強と演技の二つに興味を持ち成長したようです。18才の時にはベン・アフレックと一緒にオーディションを受けました。このオーディションで役を得たのはアフレックではなくデイモンでした。「ミスティック・ピザ」(1988)はデイモンのデビュー作となります。当時、この作品の主人公ジュリア・ロバーツと14年後に共演するなど夢にも思わなかったことでしょう。

デイモンは、俳優業を続けながらハーバード大学に入学しますが、あと12単位で卒業なのに仕事に専念するため中退してしまいます。

22才で「青春の輝き」(1992)が公開。主演はブレンダン・フレイザーで、この作品には後で有名になるクリス・オドネルや親友のベン・アフレックも出演していました。ここで共演した若い俳優達はプライベートでも付き合うようになり、親交は今でも続いています。

デイモンとアフレックは、二人で役者を目指し、いくつかの仕事にありつけましたが、なかなか芽が出ませんでした。二人は「フィールド オブ ドリームス」(1989)などおおくの映画にエキストラ出演したりしています。

1993年、「ジェロニモ」に出演するチャンスを得たデイモンは、共演のロバート・デュバルから俳優の本質を学びます。しかし映画はヒットしませんでした。1995年には「クイック アンド デッド」で主役を演じるはずでしたが、レオナルド・ディカプリオが役を得てしまうという不幸が起こります。その後も彼の不遇は続きますが、デイモンは諦めることなく俳優としての目標に向かって努力していきます。

3年後の「戦火の勇気」では、役作りのためダイエットをしすぎて医師の管理下に置かれるほど仕事に集中してしまいました。映画は大ヒットとはいきませんでしたが、脇役ながらデイモンは初めて世間から注目を集めることに成功しました。地味な役だったのですが、苦悩する若い兵士をしっかりと演じることで人々の心を掴んだのでしょう。

デイモンはだんだんと演技のできる若手俳優として認知されてきました。しかし、その後選んだのは「グローリー・デイズ」「チェイシング・エイミー」といった中規模作品でした。これは親友のベン・アフレックが出演していたからです。彼は自分のキャリアよりも友人を優先する性格のようです。

そんな人柄ですが、「戦火の勇気」を見た有名監督からのオファーが舞い込みます。フランシス・フォード・コッポラが「レインメーカー」の主演に抜擢したのです。大手法律事務所と闘う若手弁護士という役は、デイモンには適役で彼は南部訛りをマスターし、しっかりとした演技のできる俳優という認知を得ることに成功しました。

そして、遂に彼の人生にとって大きな転機が訪れます。仕事に恵まれなかった彼は、自ら脚本を執筆して自分で書いた脚本を映画化したいと考えたのでした。デイモンは、親友のベン・アフレックと共同でじっくりと時間をかけ、低予算でも観客が感動できる脚本を完成させました。舞台は二人の故郷マサチューセッツ州ケンブリッジ。若き数学の天才を描くドラマでした。この企画を完成させ、二人は映画スタジオを回ります。タイトルは「グッド・ウィル・ハンティング」。しかし企画はなかなか通りませんでした。そこで二人は、出演者に有名人の起用を考えます。粘り強い交渉の結果ロビン・ウィリアムスが協力を約束します。遂に映画は無事製作され、公開されました。そして予想外のヒット作となりました。一見地味な映画なのですが、観客からの評判がとても良かったようです。結果、ゴールデングローブ賞では脚本賞を受賞してしまいます。二人は俳優としてではなく脚本家として映画界に認められてしまいました。さらに、その年のアカデミー賞でも脚本賞を受賞してしまいました。きっと一番驚いたのは本人達だったのではないでしょうか。ゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞でスピーチしたデイモンとベンは、とても初々しく好感度がアップします。そして瞬く間に名前が売れていきました。

デイモンは、受賞直後スピルバーグから声をかけられます。そしてスピルバーグ映画に役者としてキャスティングされました。「プライベート・ライアン」では、ライアン役をGetしたのです。役として出番はそれほどおおくありませんでしたが、デイモンは現場でスピルバーグの邪魔にならないよう彼にくっついて映画を勉強しました。デイモンは「世界一の映画学校に特別入学できた気分」だと後に語っています。

その後は、ケヴィン・スミスの「ドグマ」に出演。「リプリー」(1999)では体重を13キロ落として殺人犯を演じました。2000年には「バガー・ヴァンスの伝説」(2000)ではロバート・レッドフォード監督、「すべての美しい馬」ではビリー・ボブ・ソーントン監督と仕事をする機会に恵まれました。

デイモンが出演した作品はヒットしたり話題になりましたが、「俳優マット・デイモン」が評価されることはありませんでした。デイモンは脚本家として地位を得たものの、俳優としては相変わらず不遇の時代が続いたのです。

2001年に入ると、デイモンはベンとプロデュース業に進出します。脚本コンテスト「プロジェクト・グリーンライト」を開催します。自分たちが苦労した経験のある脚本開発を支援するプロジェクトで、このコンテストはテレビ放送されました。二人は積極的に若手脚本家を支援して最終的に残った優秀作品は映画化されました(残念ながらヒットしませんでした)。

「オーシャンズ11」では、ジョージ・クルーニーと共演、この作品でクルーニーや監督のスティーブン・ソダーバーグと意気投合します。

2002年には、「ボーン・アイデンティティー」の主役にキャスティングされました。しかし現場は荒れていました。制作費は足らず、監督は制作会社と衝突してしまいます。しかし、デイモンは辛抱強く演技に集中しま。結局公開が遅れたのにも関わらず、映画は世界中で大ヒットしました。この映画がきっかけで、デイモンはハリウッド俳優という地位をやっと得ることに成功します。そしてこの作品はシリーズ化されました。

「ボーン・アイデンティティー」の成功で、さらに大作への出演をするかと思われた矢先、デイモンはインディーズ映画に出演します。友人のジョージ・クルーニーが監督した「コンフェッション」で仕事をしたのです。やはり自分のキャリアよりも友人を大切にするデイモンでした。
続く「ジェリー」では、脚本と編集も担当します。この作品は「グッド・ウィル・ハンティング」と同じ座組で制作されました。監督はガズ・ヴァン・サント、主演は約束通りベン・アフレックです。デイモンは脇役でした。デイモンとアフレックは、お互いの作品にカメオ出演したりしていますが、二人が自分たちで企画した作品は、交互に主演することを約束しているそうです。

2004年には、シリーズ続編の出演が続きました。「ボーン・アイデンティティー」の続編「ボーン・スプレマシー」、そして「オーシャンズ11」の続編「オーシャンズ12」です。彼は安易に作られる続編を嫌い、自分で納得のいく作品への出演にこだわっていたようですが、「オーシャンズ12」は、やはり友情の比率の方が高かったのではないでしょうか。

デイモンは、長い役者人生において、様々な対極を経験してきました。俳優としての挫折と成功、自分のキャリアと友人とのメリットのない仕事、俳優と脚本家、出演者と製作者.....。でも、彼はそのすべてを楽しんでいるようです。そして、対極のどちらでもやる意味を見いだしています。

今後の彼のキャリアはどうなっているのでしょう。友人との仕事でいうとジョージ・クルーニーと一緒にいくつかのプロジェクトが進行しています。その中には「オーシャンズ13」(2007年公開予定)も含まれています。「ボーン・アイデンティティー」「ボーン・スプレマシー」に続く「The Bourne Ultimatum」 (2007年公開予定)などもあります。「スタートレック」の新作にも出演するようです。そしてプロデュース作品も控えています。

役に恵まれなかった彼は、自ら脚本を執筆して出演し映画史に名を残しました。
「グッド・ウィル・ハンティング」以来庶民的でハンサムではないが好感を持ってきた彼は、やっと役者として地位を得ることに成功しました。
今後のデイモンはハリウッドの台風の目になる可能性が高いですね。

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